2022_Works

出せるやつだけ

クラブコスメチックス t8k PR動画(音楽+SE)

 
 
 
 
 
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クラブ t8k(テイトク)シリーズ(@t8k.jp)がシェアした投稿

珍しく大阪の制作会社と大阪で完結した仕事。曲かなり気に入ってます

 

DUNLOP TYREGRAPH篇PR動画(音楽制作)

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普段作らないような曲。こういう四つ打ちのEPを出したいなーと思い続けはや3年。

商業施設「MAROOT (マルート)」カウントダウンCM音楽制作

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富山の商業施設「MAROOT (マルート)」 がオープンするまでのカウントダウンCMの音楽を作成させていただいていたりなどしていました。ローカルCMなのでオンエア見れず。

 

ロート製薬 ロートCキューブ 「CCキューブ ダンス」篇 作編曲

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歌詞のみが存在している状態からの制作。tiktok的なアレンジ。

 

アイドルマスターミリオンライブソロ “M@STER SPARKLE2 06″楽曲提供

ギター&ベースをおれの楽器演奏心の師であるigrek-U氏( @ancre_this)、ドラム演奏&RECエンジニアリングを武田(@ta_ta_ta_dr )にご担当いただきました。これでポップス作るおもろさに目覚めた感じはある

 

VaVa 3rd Album『VVARP』M12. ”Gatsby

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ストリングのアレンジを町田匡さんにお手伝いいただきました。演奏はVn.町田匡 Va.萩谷金太郎 Vc.小林幸太郎(敬称略)にお願いいたしました。MIXはD.O.I.氏が担当です。VaVa君のメロのセンスってまじですげーなーと思います

in the blue shirt 3rd album "Park with a Pond"

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今年の上半期はほぼずっとこのアルバムを作ってた。アルバムを出すよりおもろいことなし。



”Free Association”

 

youtube.com

人を巻き込んでの動画大喜利連作。最近更新できていませんがまだ続いています。というかずっとやります

ケース・バイ・ケース / in the blue shirt feat.初音ミク

気まぐれで初音ミク。ギターリフが思いついたと言うだけの曲。

時を楽しむ時津町2022

youtu.be

毎年自由にやらせてもらっていますが、今年もなんか掴めそうな曲になりました。

サンドリオン『SOUND OF BES2』

 

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M5のLINE LOOP(in the blue shirt Remix)で参加させていただいております。バンアパ木暮氏作曲、やぎぬまかな氏作詞でかなり恐縮しながらのリアレンジ。2キーを行き来する転調のさばきは謎の仕上がり。

tricotニューアルバム『不出来』 上出来 ~不出来Remix~

Voイッキュウ氏からLINE経由で頼まれたので2つ返事で作ったが、まさかアルバムに入るとは思っていなかったです。

 

ライティング仕事

作文大好き、作文いっぱいさせてください

ブログ

arimuri.hatenablog.com

平均文字数は増える一方、テキスティングジャンキー

無題

某日

 3rdアルバムリリース日。コロナの鬱屈と共に、意図的に1人で閉じて制作した前作のEPに対し、今回はかなり投げかけの意識で作った作品である。なにもわかっていなかった1st、今思うとほぼ心の機能が停止しかかっていた2ndときて、3枚目にしてようやく平常時の自分のフィールを作品にできたような気がしている。

 自らの音楽活動において、唯一誇りみたいなものを持っているとするならば、まとまったEPやアルバムを出し続けているということになるであろう。リリースに付随してツアーなどがあるラッパーやバンドに対して、自分くらいの規模のエレクトロニックミュージシャンにとってはアルバムを出しても特段なにかが起こるわけでもなく、リリースに対するご褒美のニンジンはかなり手薄である。そして「〇〇(有名企業)のテレビCMの楽曲を担当しました」とかのほうが客観的な評価としては有効で、"個人が自主的に作った音楽"に興味を持ち、能動的に評価してくれる人は少ない。それでもどういった理由か、頼まれてもいないのに1人作品を作り続けている。正直なところ自分の才能みたいなものに対してはだいぶ天井が見えてしまっている感があり、この継続のみが唯一のアイデンティティである。

 そしてやはり自分はアルバムというフォーマットが好きである。この作品をもし気に入ってくれた人がいるのならば、そいつは私と気のあう部分がきっとどこかにあるのでしょう。

 

某日

 自分は先天性耳漏孔という生まれた時から耳の横に小さな穴が開いている病気?である。基本的には穴があったところでなにというわけではない(強いていうなら洗わないと臭う)のであるが、久しぶりにその穴が炎症などを起こしてしまったので、これを機に手術をして取ってしまおうという運びに。

 無意味に生じた、なんの機能のない穴とそこにつながる謎の管を切除するという謎手術、局所麻酔のため聴覚がある状態で耳をチョキチョキ切られるのはかなり恐怖ASMR体験であった。「手術室ってマジで映画とかでみるやつと同じなんや」という感想の中、のべ4時間ほどで両耳の穴の切除が完了。聴こえ方に変化もなくひと安心。

 

某日

 知らぬ間に都内のクラブは当たり前のように連日イベントが行われ賑わっており、一方で関西をはじめとする地方はこの「もうイベントとか普通に楽しんでいいっぽい雰囲気になってますよ」というこの共通認識のモードすらうまく捉えられていないといった感じである。

 コロナ禍でも営業を続けた一部のベニューを除き、どこに行ってもなんというか、ログインしなさすぎてゲストアカウントに戻ってしまった的な感覚がある。久しぶりの友人に会うエモさよりも、正直いろいろとわからなくなってしまった部分のほうが多い。みなログイン履歴が消滅し、初期アバターで集合しているかの如し。しかし料理の匂いで実家を思い出すように、かかる音楽によって想起される記憶のみやたら鮮明である。

 

某日

 Cast offのquoreeリミックスをリリース。quoree氏がアートワークを頼みたいと候補に挙げた油絵画家のMモト氏、元絵(風景画が主である)を描いたのちにその上から筆をふるい一旦元絵を破壊、その上に抽象モチーフを忍ばせる、というかなりアツい作風で、本来完成品である2mixを木こりのように切り刻み再構築している自分と通じるところを感じざるを得ず、珍しく面識もないのにアートワークを依頼したところ、完全アナログ制作で快くご対応いただきました。

 quoree氏もquoree氏で、サウンドデザインの技術もさることながら、リミックスの意図を問うと「これは悪夢を想定していて…」と技術以前の狙ってる的の話をしてくれて、2人ともなんて面白い人間なんだと興奮しっぱなし。自分は依頼したのち見てただけ。こんな役得なポジションがあるのかと感動しきり。初速を与えたら行くところまで行くこの感じはかなり久しぶり。ライク・ア・ローリングストーン!最高!

 

某日

 大阪新町のレコード屋Alffo RecordsでDJ。個人店なのに新譜をバンバン入れるタイプのレコ屋であり、店を見渡すと聴きそびれていた有名どころの新譜が目に入り、最近聴くのサボってんな〜という気持ちに。

 京都時代に多大な影響を受けた先輩である田中亮太氏が来ており昔話や近況報告など。2人してUSBが店のCDJに認識されず、仲良く対応に追われながらのオープン。CDJ1000の液晶ってこんなんだったなーと思いながら楽しくDJ。

 その後なぜかてるおさんの運転で京都へ。遊びに行ったウエストハーレムに大学の後輩の栁澤くんがポパイの記者として取材に来ていて驚き。「有村さんも出てた留年男子特集をダシにポパイ入れましたよ」みたいな話をしながらマガジンハウスの名刺をくれた。確かにそんなこともあった。あの頃はただやるべきこともやらずに狂ったように音楽を聴いていただけであったが、知らぬ間に自分も音楽を作るようになり、そしていい年こいていまだにほぼそのまま同じような暮らしを続けている。そんな暮らしの裏で、大学で出会った友人はめいめいの仕事で責任のあるポジションを担い始めており、それは素敵なことである。

 

某日

 急遽InterFMに出演、古い知人であるホサカ氏がパーソナリティであり、これまたポジション担い案件である。ラジオに出るたびに思うが、自分の曲や喋りを自らの意思ではなく聞かされた人はどんな気持ちになっているのであろうか。

 

某日

 初音ミクの楽曲「ケース・バイ・ケース」をニコ動で公開。ボーカルエディットで培った音韻ノウハウを作詞に落とすトレーニングがしたかったというのと、島田(siroPd)と遊びたかったというのが主な理由である。セルフ課題として、言葉の音韻を理解できていれば、ボカロに会話をさせることも造作ないはずであり、最低限のピッチ変化のみで喋ってるっぽく出来ることを確認したかったが、肝心のボカロエディタの操作を覚えるのが面倒で、適当に中途半端な初音ミクとの会話動画を量産するに至る。

 

某日

 ノーベル賞の発表日。自然化学の分野において最も権威のある賞の一つであるが、これが明確な基準やルールもとに争うコンテストではなく、個人の金で作られた私的な団体によるブラックボックス審査で決定されるという部分に自分は美しさを感じている。

 性善説への無防備な信頼というのは常にくだらないハックの対象になる。「審査が不透明である」というのをズルし放題としか見れないのは貧しさであるが、世の中というのはそんな奴ばかりである。私的な財団が、儲かるわけでもないのに自分の金で勝手にやっている、というのは、ガバガバとみせかけて、そいつらがまともである限りはまともであり続ける。好きにやってるんやから文句とかいうなよ、その代わり一生懸命やります。その一生懸命を出来るだけ美しく。

 ついでにイグノーベル賞、日本人の受賞者が多く、相対的に本家比で米国の受賞者が少ないのである。日本の研究にまつわる環境や仕組みは終わってます、とはよく言われており、特に間違っていないとは思うが、その終わっている環境を踏まえてアカデミアに身を投じる奴の異常性は増すばかりであり、そんな奴の研究は利害を超越した異常なものになるわけである。研究者の身分や収入が保障されてこそ枝葉の研究が盛んになると見せかけて、「適切な対価が与えられない」というふるいで濾された異常者によって、辺境のイグノーベル賞的な研究の割合が増しているということになるんか?

 ともあれ、前提として適切な対価は与えられるべきであるが、つまるところ、やるやつは環境に関わらずやる、ということに尽きる。そして、個々人の興味の対象とは他人にはコントロールのできないということでもある。

 

某日

 名古屋でHIHATT周年イベント。新幹線に乗ること自体久しぶりでかなりテンション高め。みなかっちりハウスを掛けていたのに対する逆張り半分、最近京都の学生時代を思い出す事案が多数あったため、クラブミュージックへの理解が無だったあの頃を思い出し選曲。DJはマジでもうちょっと練習しないといけない。そしてみるたびに思うがトーフさんはマジでDJが上手い。

 ホテルが同じだった小鉄さんとラーメンでも食いましょうと深夜の名古屋駅近辺に繰り出すも、検索して出てきた店はどこも空いておらず、チェーン店の居酒屋に吸い込まれる。

 

某日

 早々と名古屋を後にし神戸へ。久しぶりのパーゴルとブッダハウス。貴重な兼業仲間であるネイティブラッパー氏とは毎度お馴染みのサラリーマントーク。新譜を交えたライブセットは徐々にコツを掴んできた感。

 

某日

 ソーコアでDJ。ソーコアに行くたびにもはやあえてすき家でチー牛を食っている気がする。

 ソロもバンドも曲を作りまくる年下制作ジャンキー筆頭の近藤くん、まさか関西のライブハウスで同じになるとは思わなかったLITEのジュンイザワ氏、どちらとも割としっかり話をしてなにかを得たような気分。ヤックルに近々飯行きましょうよ、と言われ、その場で同時にLINEにも飯行きましょうと送ってくる彼らしいムーブに興奮(返信してないことをいま思い出した!スマン!)。

 ペーパーの弟のバンドは普通に演奏したのちにしばしアシッドのシーケンスが走るみたいなかなり興味深い形態。そしてペーパーは相変わらずDJが上手い。3日も連続でイベントに出ると疲労で脳がふわふわしてくる。コンビニで炭水化物を買い込みドカ食い気絶。

 

某日
 かずおとケンジと公園でぼーっと座っていると、怪しげなおっさん2人組がチラシを手に「国葬は反対ですよね?!?」と接近してきたので「なんで国葬反対なんですか?」と聞いてみると「安倍晋三は悪い人なんです!」を繰り返すだけであった。こんな草の根で、面識のないやつに考えを説くのであれば、もう少し仕上げてこいよと思うわけであるが、説明してもどうせわからないアホと思われていただけの可能性もある。

 近頃は文字通り賛否両論のニュースが多い。「いや〜賛否両論ですねえ〜」的な日和見態度はやめ、しっかりと自らの頭で考えスタンスをはっきりさせたいと思う気持ちと、スタンスとか以前にこんなことにおれの人生や脳のリソースを一ミリも割きたくないという気持ちが常に半々である。「政治に興味がない」というと「人々との暮らしと政治は不可分なんですよ」と返される。そんなことは百も承知で、ぶっちゃけなにも考えたくないというのはまあ本音である。

 

某日

 アトロクに出演。宇多丸さんは毎度おれの曲をマジでちゃんと聴いてるんだろうなということがわかり、適当なそれっぽいだけの感想を言わないのでこちらとしてもふんどしを締めていかねばならず良い緊張感がある。対おれというか出演するゲストや紹介する作品全てにそういうスタンスなのだと思われる。自分は人に注意をしたり指導をしたりすることとは無縁であるが、他人に良い緊張感を強いることのできる人間は目指す価値がある。

 

某日

 人生初のM3参加。これまで同人シーンは近くて遠い存在であったが、コロナで失われた成分を取り戻すには自らの手で自らの創作物を売るしかないのである。完全に1人だったためどこも見にいけず1人で売り続けるのみ。

 自分のような音楽を作るにあたって、とにかく仲間が少ない、というのがずっとついてまわる悩みであり、解決すべきあると思っていたわけであるが、M3の規模はもはやマスといってよく、音楽活動をこちらでスタートしていたら全然違うマインドになっていたんだろうなとすら感じてしまった。

 もっと挨拶回りとか行くべきであろうに、売り子も立てず1人で売り直帰するあたり自分の悪いところが出ているとしか言いようがない気もするが、それでもわざわざ何かを買ってくれたり、話しかけてくれたりする人がいるおかげで自分はなんとかなっているわけであるから、もらった恩はなるべく返していきたいものである。

 

某日

 良質なファンコミュニティみたいなものを考える上でよく思い出すのがジョンメイヤーとポーターである。

 ジョンメイヤーはその圧倒的なプレイに対してのプロップスがあり、新譜が出るたびに世界中のファンが彼のフレーズをコピーする。ピュアなプレイヤーズ・ファンダムである。一方でポーターロビンソンのファンの信頼は本人を超えて"ポーターの好きなもの"にまで及んでおり、それゆえに彼がキュレートするイベントや作品はスベらない。 

 自分は2人のような圧倒的な実力はないが、距離は足らずともベクトルの方向性は合わせたいと思っている。

 クリエイティブの分野にいると、こいつは本当に音楽が好きなのか?みたいなジャッジの目線を人に向けてしまうときもあるし、また逆にされる立場になることもある。じゃあ本当に音楽が好きな状態ってなに?みたいな話になるわけである。とにかく判断基準をミスると悪いインディ野郎(排他、保守、客観性の欠如)になってしまう!

 

某日

 名古屋でタッチ&ゴーなるイベントに出演。うまく説明はできないが、みんな音楽が好きなんだろうな〜と毎度思うんだから実際そうなんでしょう。久しぶりのナイトイベント出演、気持ちよくライブして酒飲んで気絶。

 

 

 

 

 

年末12/30(金)デイタイムに渋谷WWWでアルバムのリリースパーティをさせていただきます。おれの人生の憧れであるレジェンドの寺田さんと田中さん、共作した川辺くんとVaVaくん、関西のミュージシャンでおれの気持ちを托せそうなピアノ男もいう贅沢なメンバーにて。こんなアホみたいに長いブログを読んでくれるみなさんにこそ、文章では伝わらない成分を摂取しに是非来ていただきたく思います。文章よりは音楽の方が得意だし!チケットは今日の昼から(多分)買えます。何卒!!!

"Park with a Pond" inspo 書籍編 (随時追記)

"Park with a Pond" を作るにあたって影響を受けた本を書いていこうと思いましたが、途中でだるくなったので書きかけで公開しました。残りを追記して完全版に至るかは謎です

1.檸檬 (梶井基次郎)

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大阪城公園をぶらぶらしていたところ、あまり綺麗とは言えず底の見えない水堀をぼんやりとみながら「これ死体とか沈んでてもわかんねえなあ」と思ったのがそもそものスタート。(動画は全部大阪城公園で撮影したものです)

 桜の樹の下には 屍体 が埋まっている!

 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。(梶井基次郎

これ梶井基次郎のアレやん!と思うわけである。コロナ禍真っ最中であるのに、公園に来ると恐ろしく平和かつ穏やかで皆楽しそうであり、なんならノーマスク時代と比べると人が少なくより過ごしやすい。一方でドブみたいな堀には(いま思うと城=戦の安易な連想であるが)死体が沈んでいるかも知れない。死体どころかなにが沈んでいるかわからない。死体どころではないかもしれないし、何もないかもしれない。まるで建前に隠された人間の本心のようである。漠然とこれをアルバムのテーマにしようと決めた。大ネタサンプリング感も自分っぽい。

 加えて、自分は梶井基次郎檸檬収録の”桜の樹の下には”という短編が異常に好きであるが、その理由の1つに、誰かに話しかけているような主観語りの視点で終始綴られるから、というのがある。その様子は、自分が音楽を作っている時、ないしは家で一人スピっているときの状態そのものであるように思えてしまうからである。
教科書とかに載っているような作品なので勧めるまでもありませんが、青空文庫で読めますので読めますので未履修の方は全員読んでください

www.aozora.gr.jp

2.雪沼とその周辺 (堀江敏幸)

2020年の夏頃に『正弦曲線』という堀江敏幸のエッセイを読んでいたく感銘を受け、しばらく堀江敏幸の作品をいろいろ読んでいたうちの1作。どれもこんな文章が書きたいと思えるほどの素敵なものである。

この作品はオムニバス形式の(かつそれぞれがたいして干渉し合わない)8篇、一つの街を舞台に、なんらかのアイテムとそれにまつわる自分語り的な回想が繰り返される。そしてとくにセンセーショナルな何かが起こるわけではない。ちょうど出来事濃度が高すぎるエンタメ作品の到達作品であるゲーム・オブ・スローンズをシーズン8まで見切った後だったので、その塩梅があまりに心地よかった記憶。

”おもんない人間なんていない、おもんないのはお前だけ”理論を振りかざす上で、市井の人間のおもしろさがどこに宿るのかを考えさせられてしまった。世界チャンピオン、シャバに出てきたてのアウトローなどの珍しい職業や属性、Youtubeを始めたら即数字を取れるような"濃い"人生の持ち主に対して、悪魔の淡白軍団である平々凡々な平民の美しさに、”みんな違ってみんないい”的な安直なレトリックに逃げずに向き合うには、一人一人の記憶と、それにまつわる話に耳を傾けなければいけないのである。

自分の音楽はストーリー不在である。そんな中で、公園という空間で過ごすそれぞれの人間の心に池があり、別に相互不干渉である、という構想のもとになった気がする。あいつとは仲がいいが、池の中身は知ったこっちゃないのである。池への接近は基本的に回想と語りによってなされる。でもわざわざ池の真実を暴くまでもなく、公園にその雰囲気は表出しており、それこそが個性である。

3.スケートボーディング、空間、都市―身体と建築 (イアン・ホーデン)

もうすでに過去のブログで以下のように書いているが、我々平民が、上述のいわゆる"濃い"人生に比肩するには、スケーターのもつ、都市に対するまなざしの姿勢が必須であるというのが自分の考えである。

いい機会なので、値段が高いと言う理由だけで長らく読まずにいた”スケートボーディング、空間、都市―身体と建築”を買って読む。典型的な、書いてありそうなことが全部書いてある(いい意味で、途中で読むのをやめても問題がないとすら思えた)本であった。人を住まわせて金を稼ぐための市営住宅プロジェクトが生んだ退屈な建築物は、スケボーを持ってすればクリエイティブの対象である。要するに”おもんないアニメなんてない、おもんないのはおまえだけ”(言い出したのが誰かは知らん)、”目に映る全てのものがメッセージ”の精神である。

 スケートボーディングは犯罪か否かを論じることは、音楽のサンプリングと非常によく似ている。リスニングの対象であり、完成物であるはずの音源は、サンプラーを持ってすれば、新しい音楽を生み出すための文字通りの素材である。これは都市とスケーターの関係のミラーである。そしてスケボーは公共物に傷をつけ、サンプリングは著作権を侵す。音楽制作者としての自分は、要するにストリートで学んだが、いまはパークでしか滑らないスケーターである。

4.トーフビーツの難聴日記(トーフビーツ)

リアルタイムで日記が更新され続けるevernoteのリンクが共有されており、わりと書籍発売直前まで更新されていたため、結果として今回の自分のアルバム制作中にずっと読んでいた書き物であるとも言える。

読みながらその書きっぷりと温度感で朝永振一郎教授の「思い出ばなし」を想起し、その旨を連絡したところトーフさんがさっそく朝永振一郎関連の書籍を買っていて、さすがだなと思ったりもした。トーフビーツ朝永振一郎の間に私の見出した共通項のようなものは、自分が音楽にもとめる温度感そのものといってもいいかもしれない。

トーフさんはよく理想の活動の姿勢を「おなじ的に向かって球を投げ続けている」みたいな例え方をする(このインタビューでもその話題に微妙に触れている)が、そういう意味では自分はかなり的が狭い人間である。

tofubeats氏の活動および姿勢の薫陶を受けた結果が今の自分といっても過言ではなく、ありがたいことに1ページもらいtofubeats論についてマジレス文章を寄稿させていただいておりますので是非。

5.春宵十話 (岡 潔)

元々は大学生の頃にネットで見かけた以下のパンチライン

私は数学なんかして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうとスミレのあずかり知らないことだと答えてきた。

の原典に触れたいというシャバい動機で読んだ本である。理系レジェンドのエッセイという意味では朝永振一郎書籍と似ているとも言えるが、以下の文章も含むパンチラインはしがきから始まるこのエッセイは、より主義主張がはっきりしているものであり、なんとなしの日記というよりは、人にを教え導かんとする松下幸之助の文章などに近いバイブスである。

私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。

全体を読むとちょっと前時代的に感じる部分もあるが、数学を突き詰めた人間が、情操の豊かさこそが重要で教育の本懐であると語り続け、さらに表現をすることは生きる上で最重要であると言い切るのはかなり迫力がある。スミレはスミレのように咲け、理由はスミレだから。ではそのスミレさの発現というのはどこから?と考えた時に、平々凡々な我々平民の心の中に、源泉となるきったねえ池があるということである。

6.最短コースでわかる ディープラーニングの数学 (赤石 雅典)

どこかで見かけたDiffusion Modelという生成モデルを用いた連続画像シーケンスの表現に感動してディープラーニングの基礎を勉強開始。別にPyTorchとをはじめとする既存のライブラリを使うだけなら別になーんも知識なんていらんわけやが、初歩は理解しておかないと今後損しそうなので珍しく本を買って勉強。初学者用の本ではこれが一番しっくりきた、理系なら全員これ読んどけばいいと思う。
無理解からくる「AIがクリエイティブ領域をめちゃくちゃにする!」とか「人間の魂が宿っていないものはカス!」みたいな両極端な意見は論外として、所詮どこまでいっても多次元空間に浮かぶ点めがけて数値をどうにかしていくだけ、という感覚はみんなが一度味わっていても良いかもしれない。

トーフビーツ論で言うところの「的」が多次元空間に浮かぶ点であるとするならば、創作活動は1.点の設定、そして2.その点への接近の2つに分けられる。現在AIは雑に後者をやっているだけであるともいえる。完全解析された多次元空間を仮定して、最短距離での最適化プロセスが提示されたとて、その点に本質的な優劣がない以上、たどり着いたところで何がどうというというわけではない。

そんなもんなので、おれが音楽を作る理由がAIによって奪われる可能性は生きている間はまあ低い。的が明確っぽく見えるのは美しいが、自分の的を自分が完全に理解できている(ないしはできる)と思うこと自体がそもそも驕りであり、怠慢である。

そんなこんなで私の習作が以下ですが、stable diffusionの登場前にやっといてよかったなと思う。分子シミュレーションでブラウン運動させまくっていた身分としては、Diffusion Modelの拡散過程というのは実にイメージが容易である。

 

 

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7.ブランクスペース(熊倉献)

スパイファミリーをはじめとするweb連載ベースのヒット作がどうも好みに合わない中、熊倉献氏のこの連載はリアルタイムで完走。ちょうど最終話の公開が8月中旬であったため、これとともにおれのアルバム制作も終わったんや・・・みたいな気持ちに勝手になったりした。『春と盆暗』もそうであるが、人との出会いによって前に進むためのきっかけを得る、みたいな話。スイはクソみたいな人生の中、創作物に救いを求め、最終的に自身も創作を志す。ショーコはスイの趣味嗜好に対しての知識も理解も持ち合わせていないが、心からリスペクトを示しており、二人は良い友人となる。池を暴かずとも心は通う。自分がアルバムでやりたかった感じとかなり近い。

viewer.heros-web.com

8.泣く大人(江國 香織)

女性作家のエッセイが読みたくて購入。全体でいうと好みどストライクというわけではなかった。一方で”ほしいもののこと”という章の中で井戸が欲しいと綴られる部分がある。「公園は平和だが、池には何が?」とするおれと指向はかなり近く、持ってもいない井戸が裏庭にあると仮定して、具体的な利点や効能を羅列する。祖父母の家にも井戸があり、朗らかな思い出と共にある。井戸is平和。でもそれだけが欲しい理由なのかというとそうではない。

ときどき、蓋を開けてのぞき込む。そこはまっ暗で、深くしずまり返っている。冷気がのぼってくると思う。声を出すと、わずかに反響しながらその声が下に落ちていく。別の世界へ。裏庭に別の世界がある、ということの安心!

別世界へのゲート、あちら側へのメタファー。触れられない、得体の知れない場所へと続く穴。家の裏庭にそんなものがあるということを、安心と表現する。この感覚は本当に共感しかない。最後はこう終わる。

やっぱり井戸が欲しいと思う。最後にはきちんと身投げもできるもの。

朗らかさの獲得と、桜の木の下の死体的な物へのゲートとして。美しいものを見たときに、その背後にある禍々しさを見出すどころか、桜-死体セットを意図的に設置したい!という能動。おお〜かなりおれと近い!と勝手な共感。

9.カメラの前で演じること(濱口竜介

「ドライブ・マイ・カー」はあいも変わらずすごい映画であったが、濱口作品に通底するモードに対して、もう一歩、もう一声おれに情報をクレメンス・・・と思いこのタイミングで購入。

野暮は承知でおれの言葉に当てはめるのであれば、「人のからだの動作には池が表出している。カメラの前で演じることというのは、演じる人/演じられる人のもつ池を捉えようとする試みだ」という主張である。

演じる対象を完全憑依させ、寸分の狂いなく対象そのものとして振る舞える状態を、理想の演技とみなさないということである。演じる人/演じられる人のもつ池は違う。差異の認識こそが重要である。さらにその差異を認めるどころか、場合によっては(こと『ハッピーアワー』においては)改稿をも辞さない、とまで言い切る。

「自分は自分のまま。他者は他者のまま」、一緒にやっていく」という人付き合いの難しさは、そのまま想像上のキャラクターを演じる困難さに移し替えられるのだ。他者=キャラクターの尊重はもちろん重要だが、もしかしたらそれ以上に自身の違和感は尊重されなくてはならない。

濱口竜介監督は、映画によって池の表現をしようと腐心していると言える。『ドライブ・マイ・カー』でも『ハッピーアワー』でも執拗に繰り返される、本読みをはじめとする演技の習得の過程を執拗に描写するのは、池の差異の認識作業であり、極めて大きな意味を持つ。

池を伝えるためにすることは、池の水を抜くことではない。まじですごい本なので全員読んで欲しい。

余談としておれは古本で買ったが、いろんなところに円や線の書き込みがあった。その書き込み主とは何一つとしておれとは気が合わなさそうであった。

10.思想としての孤独(清水 学)

11.望郷と海(石原吉郎

 

"Park with a Pond"セルフ全曲解説

例に漏れず新譜のセルフ解説です。ライナーノーツ的な側面も。

過去

"Sensation Of Blueness"セルフ全曲解説 - in the blue shirt

EP”Cyanotype”セルフ全曲解説 - in the blue shirt

in the blue shirt 2ndアルバム"Recollect the Feeling"全曲解説 - in the blue shirt

in my own way e.p. セルフ全曲解説 - in the blue shirt


テーマ

公園は、誰もが楽しく過ごせる平和で穏やかな場所です。
でも、その公園の池には何かとんでもないものが沈んでいるかもしれません。
Park is a peaceful and serene place where everyone can have a good time. 
But what exactly is hidden in pond in a pond of that park? 
There may be something extraordinary sunk in there.

上記のリード文をいろんなとこに書いていますが、要点は2つです

  1. 打算を無くして思いを詰めたい
  2. 人の本心には容易に捉えられないが、別に問題はない

なんせイベントなどにあまり出ておらずかなり暇だったのでごちゃごちゃ考えていました。考え中のメモをそのまま貼っておきます。

  • 打算はないが思いがある
    • 制作には打算が伴う(こういう層をターゲットにしよう、売れ線の曲を作ろう、、トレンドや流行りのジャンルを拾おう、海外っぽくしようetc.)が、そういうのを無くしたい
    • 世の中の打算濃度が高まりすぎている!!!
      • おれは兼業なので打算を抜きやすい
      • 打算がないことは、必ずしも何も考えていないことを意味しない
        • イマジナリーギャルとか、無鉄砲なアホ信仰みたいな、バイブスのみでこそ本質を捉えられるみたいな風潮に歯向かいたい
          • 本質を捉えたギャルがいたとするならば、それは経験からよく考えており、ただ説明が下手なだけである
        • 打算なき心のこもった創作は可能
      • 打算をなくしたいという打算(永遠のメタ構造)
  • 人の本心というのはマジでわからない
    • モチーフを”池のある公園”にする
      • 脱打算のメタファーとしての公園:
        •  公共施設であり、皆勝手に過ごしている
        • 何してもいい
        • 公園は楽しいことが多い(朗らか、平和なイメージ)
        • いろんな人がいるが、相互不干渉
        • 何かする上で周りの顔色を伺っていない
        • 逆に周囲の存在を全く無視してはいない
          (マナー:ちんこ出さない、犬のフンは拾うetc.)
      • “捉え切れない謎”のメタファーとしての池:
        • 池自体は平和に寄与する、池サイコー
          • 景観に寄与
          • 眺めると楽しい
          • 水面が綺麗
          • 青い(インザブルーシャツのブルー要素)
          • 生き物生態系の爆心地
          • 池があるだけで多様なアクティビティが発生
        • しかし池の中には何が?→不気味さ、底知れなさ
          • 何もないかもしれない!
          • やばいもの(死体とか)があるかもしれない!
            桜の樹の下には 屍体 が埋まっている!(梶井基次郎
          • 池の水全部抜くのは野暮
      • 誰しもが公園であり、池がある(過言)
        • ぱっと見の印象と本心は全然違う!
          朗らかな人が内心怒っていたり、すごい考えていそうな人がなんも考えてなかったりする→池の中は不明、ブラックボックス
        • 公園の池の覗き込む→人の気持ちや本心を捉えようとする
        • 本質的に人の考えを全て理解することはできない!

1. Concentration and Distraction

 山田池公園iPhone直接録音した環境音からスタート。アンビ音声をカットアップすると時空切り裂いてるみたいでかっこいいなと思いながら制作。

 日常の環境音が切られていくことを、考え事を始めたり得体の知れないところへ突入したりするきっかけとする的な。

2. Intersection of Sets

 変な曲作りたいなーと思いながら作った。なんか一時期ベン図おもろいみたいな話してて、丸と丸の重なりを考えようみたいな曲。タイトルは公園に来ている人の中には何にか共通項や似た考えを持った人がいるかも知れないが、そんなことは知りようもない、という考えから。そのアイディアでそのまま大喜利動画も作った。

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3. Park With A Pond

 タイトル曲。基本は公園散策のテーマソングを作ろうというのがスタート地点で、雰囲気を掴むために動画を出したりもした。前半部分のみ作って放置、後半のアレンジには苦戦。

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 アルバム過去2作にはタイトルトラックがなく、初の試みとしての盛り上がりが欲しく、(三曲目にして)大団円っぽく終わりたいという意図で後半部を作成。おれたちを良くも悪くも縛ったFuture bass、Saw波コードスタックのキメアレンジ自体は自分はかなり好きでアイディア自体は取り入れたいが、そのままやるともうダメなので・・・という考えで制作。

4. At Heart

 2015年あたりからちらほら登場し、bon iverの"22 A Million"やCashmere Catの”9”などでわれわれをビビらせたデジタルクワイア、それを中心に据えた曲のアイディアを、衝撃受けた当時から考えていて、国内若手もガンガンやるようになったのでやべーと思って制作。2017年ごろににサンレコで気になっている機材やプラグイン、欲しいものを答えるコーナーがあり、それぞれ「プリズマイザー(市販されていない謎の存在)」「一生錆びず切れないギターの弦」と答えて変なやつみたいになったことを思い出した。

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22 A Millionリリース当時のこのbon iverのオフィシャルプレスは今見てもおもろい

5. As a Fake

 個人的に三点セットシリーズと呼んでいる(1stのWay ahead、send aroundや2ndのcasual remark)基本サンプル、ドラム、ベースの3トラックのみで組むやつ。新しいテイストへの挑戦はFidgetyでやったのでこれはマジで手癖のみのトラック。結局ベースも打ってない。トラックはサンプルとドラムのみ。元ネタはFirst Choice - Don't Fake It。ライセンス取るときに権利者が6人いてすげーなと思った、小銭しか渡せませんが貢献させていただきたい。

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6. Stroll down

Park With A Pondに続く公園シリーズとして制作。前半の展開ができてから完成までがなかなか形にならずキツかった。As a Fakeのような2mixぶった切りに対して各パートの音素を切るタイプのカットアップワーク。半年後に触ったら全然違う曲になると思う。


7. Time to Go

時津町PR用の楽曲をフル尺化。こういうギターの使い方する曲は世間にもっと増えて欲しいなーと思う。AOR的なおしゃれギターも歪ませてガンガン刻むタイプのプレイもロキノンマナーもおれの好みの中心にはなく難しい。いわゆるカノン進行のもつ本質的ないなたさ(もっと極論いうとダサさ)ってなんなんやろなーと思いながら作った。

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8. Fidgety

 英語圏以外のボイスサンプルをカットアップする実験を繰り返した果ての成功例の一個として収録。

 イーストサイドアジア感を過剰に過剰に押す意図は無く、この曲を聴いたストーンズ太郎と「日本から世界に発信する際に陥ってしまいがちな安易なオリエンタリズム」みたいな話をした記憶。サムライ!忍者!とか漢字モチーフとか、アジアをレップする上で、いわゆるタランティーノ映画的な誇張アジア観を当の本人が再生産してしまうみたいな懸念が強すぎて、逆にこういう土着したサンプルってむずいよなーと思いました。(逆にいうと欧米文化の浸透性には驚かされる、グローバル化アメリカナイズのベン図の重なりがデカすぎる的な話)

 言語が分からなさすぎて意図せず不謹慎な言葉や倫理に背くことを言っているように聞こえてしまうことは避けないとと思って意識はしてるけどやっぱ限界はある。なぜならなんも分からん言語だから。おれは第二外国語で中国語履修したはずなんやが。


9. Forward Thinking

 おれの中のイマジナリーK-POPあるある、”同音程8分で近い母音の音素連呼しがち”から着想を得てメインのボーカルパターンを作ったが、具体例を出せと言われても古の日本輸入KポであるGeeくらいしか思い浮かばない。嘘認識疑惑がかなりあり、言語的な特徴から本当にそうなのかも知れないしそうではないのかも知れない。言語跨いで母音子音のフローを考えながら音楽を聴き続けた結果が自分のこのボーカルエディットであるが、最終的にはやっぱAIにやらせたいのでもうそろそろ体系化したい気持ちがかなりある。

歌い出しだと赤枠のとこ

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10. Hold a Belief

 6/8拍子の曲。ある時を境に三連系の拍子を異常に使うようになったが、これは3倍数グリッドの曲はDJツールになりづらいという事実からの逆張り(おれはライブセットでどうにかするからどうにかなる)なのかも知れない。

 曲は町田さんがエンディングに生演奏で魂を注入してくれたのでいうことなし。ゴリゴリのバイオリニストである町田さんとの交流から得たものはかなり多く、制作の糧になりました。シンエヴァは映画館に8億回観に行ったらしいです。


11. Vision of Mind

 以後エンディングまで6/8拍子。こういう808の使い方を最近しすぎているかもれない。おれは個人的にBreakthrough (for me)という前作収録曲とそのPVを異常に気に入っており、そして世間的には全然ウケなかったのが結構不満で、6/8ヒップホップビートをまた作ったのはそこへの反骨な気がしている。世間の反応がどうだとかは基本気にしたことがなく、そんなことを思うこと自体がかなり稀なのでよほどなんだと思う。

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12. Be What I am

 サンプル元のPhase 7 - Slip Awayはもうずっと前から使うと決めていて、前奏部をループ/刻みどちらでも活用。ソウル/R&Bをサンプルする黄金パターンとしてピッチアップ(33回転レコードを早回しで45回転)はもう大前提、ブーンバップ帯でヒップホップ、130まで上げてハウスやガラージ、もっと上げてブレイクス物やナイトコア的な使い方など多岐にわたるが、170前後のロックの生演奏の中核にブチ込んだ例はあまり無く、いろいろ試してこういう形ならいけるとたどり着いたのがこの曲。6/8でリズム遊びをするネタは前作in my own wayでかなり頑張ったが、6/8と4/4拍子をたゆたう感じはFork in the Road のunlucksiリミでもやってたのでそれもずっと頭のどこかにあったのかも知れん。リミックスをしてもらうのはそのまま自分の自分の制作に還って来るのである。

 アルバムを作り始めた時点で「最後はフェードアウトで終わる」と決めていて(おれの曲でフェードアウトで終わるやつはほぼ0という事実もある)、ギリギリまでそういうつもりでいたのに、なぜかぶった切りエンドに変更。絶対に全貌は分からない人の本心に対して、やっぱ一石を投じたいよね的な謎の思考に陥り、文字通り石を池に放り込む演出にしました。レコーダーで生録を試みるもうまくいかなかったので適当な市販サンプルでフィニッシュ。最後適当な市販品で満足するのは自分ぽいなとも思う。

 記念に、フル視聴の動画では実際に30分スマホいじってからタイミングよく石を投げ込む様子をカメラ回して撮影した。上半身裸のおっさんが池をチャリで周回しており、30分尺では絶対に一回は写り込んでしまうという状況であったが、もうこれ以上30分スマホいじってからタイミングよく石を投げ込む行為をしたくなかったのでそのまま公開。打算なし。

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無題

某日

 アイドルマスターのキャラソンCDの発売日。武田とUさんの手を借りて、関西でのオールセルフRECで納品。タイトなスケジュールへの対応と素敵な演奏に感謝。普段は絶対に作らないような、でも自分の趣味の真ん中にあるような曲ができたので満足。録音を伴う、過剰に編集的ではない音楽は今後も口実さえあれば時々作りたい。

 

某日

 作っているアルバムのテーマないしはモチーフを公園の池にしたこともあり、定期的に池の視察に行く。大阪のでかい公園をストリート性の有無、公共性の高さ、整備具合などの軸で考えていくとなかなかに面白い。アルバムのテーマの着想に至った大阪城公園は城ホールやよしもと漫才劇場なども含めると巨大商業施設であるといえるし、花の万博跡地である鶴見緑地金策以外の目的で景観が整備されている。スケボー少年が集うがいわゆるパークとは程遠い城北公園はもっと雑多である。市内の主要公園だけ見ても全くに性質が異なる。そしてその全てに池がある。

 今日も市外でのお気に入りの一つである山田池公園に赴きぼんやりカメラを回すわけであるが、あまりの長閑さに夢の中を見ているような気持ちになる瞬間が時折訪れるのである。

 

某日

 かずおと飯。頼んでいた自分のアーティストロゴのラフを見せてくれる。想定を超える打点にちょっと感動。洗濯ロゴとイニシャルモチーフ。

 名義の理由を聞かれたときには、At The Drive-Inみたいにしたかった、色を入れたかった、という二点をまず答えるようにしている。残りの理由をあまり話さないのは単純に恥ずかしいからである。当時、風になびくシャツを見て、意志を持って動いているように見える、みたいな感じで、日常着の大量生産品に情操を見出すみたいなことを常々考えたことを思い出す。洗濯タグなんていうのはバーコードみたいな類の、義務付けられた機能の要素でしかなく、そういうのが一回転して自分の看板になるのはおもしろいし、やりたかったことでもある。

 

某日

 草野球をし、晩飯にビールを飲む、最高!というのがだんだんビール主目的にシフトしていくみたいなことはままあるが、アホな効率厨の「じゃあビールだけ飲みに行けばいいじゃないですか」みたいな提言に耳を貸すのは無意味である。草野球の喜びを知らないやつと議論をしている暇なし。そしていまの自分にとっての草野球は音楽を作ることである。

 アルバムを夏に出します、とぼんやりツイートしたものの、出さなければいけない理由などなく、モチベーションの維持が難しい。さらに言うといつまでが夏なのかと言うのは自分の塩梅しかない。

 ひとまず有村のいう夏の定義は小学生の夏休み終わりの8/31までとしましょう。今できてるのは5曲?全然間に合ってなくてワロタ。

 自分の気質はよくわかっており、こういう時は金を払ってしまう(要するにライザップメソッドである)か、人を巻き込むに限る。

 町田さんにバイオリンを頼み、シングル含めたアートワークを友人知人に頼み、動画大喜利大会、と言うタイトルで企画書を作り(のちに ”Free Association” というイキったタイトルをつけるに至る)ほうぼうに投げてしまった。数ヶ月以内には頼んだ人全員から作品が届く、それを想像しただけで脳から幸福物質が出ている。

 草野球とは口実であるともいえる。なんの口実が欲しいかと言うとビールの口実である。おれにとってのビールは友達と遊ぶこと、何して遊ぶかと言うと作品を作ることになる。友達と作品を作るための口実として作品を作っているわけである。完全にフィードバックしてハウってるやん!自分のエロ絵でシコる神絵師!この話、このブログでn回目!!もはやハウリングしすぎておかしくなってる感すらある。

 

某日

 トーフビーツアルバム&書籍発売のプロモーションとしてFNMNLでのインタビューを担当。実際のところインタビューではなくただの放談であり、しかももう幾度となくした話を角度を変えて擦っているだけのようにも思える。

 自分達にとって聞き飽きたような話が、(かなり相手は選ぶが)面白がってもらえるという意味では、ミュージシャン-リスナー間のコミュニケーションというのは圧倒的に不足していて、その不足は悪い意味も含めて意図的にやっている部分と、単に努力不足の部分があると改めて感じてしまった。

 音楽を聴いて、気のせいなのか、本当にそうなのかはさておき、人生が変わってしまったと思えるくらいの感動を覚えることはある。それに対して、「僕の歌の力であなたを救ってあげます」などと振る舞うのも、「たかが音楽、さっぱり意味なんてないですよ」と言うのも、ある種サボっている部分があるといえる。

 適切な意思疎通を考えた時に、日記を書籍にして出すというのは、ベストエフォートの発現の一つなんだと、切れてしまったzoomの画面を見ながらぼんやり考えていたのである。

 

某日

 vavaくんのアルバムリリース。だいぶ昔に作ったトラックを元にフックがのせられ、町田さんの手を借りながら完成したGatsbyという曲を収録していただきました。

 vavaくんは"「あなたの曲に人生変えられました」に対してどう答えるか問題"についてとても誠実で、必要以上の卑下をせずに向き合うことをどこかで決心して活動をしているように感じ、特に大阪でのワンマンをみながら、それがお客さんにも伝わっているような感覚があり、素敵なことであるなとしみじみしてしまうなど。

 自分はいまだに「おれの曲なんてクソなんで聴かなくていいんですよ…」みたいなことを言ってしまう時があり、やめないといけないとは常々思っている。

 

某日

 園田さんのやってるyoksokにて徳利さんと松本ヒサタカ氏と共演。

 リハ後に徳利さんは「今からカラオケ行って調整してきます」みたいなことを言っていたが、自分はそういう徳利さんの冗談なのか本気なのかわからない(し実際どちらでもある)言動が好きである。

 自分は計100分程度DJ。小難しい感じも、過剰にチャラい感じもなく、みんな楽しそうにしていていいパーティだったなと思う。"みんなが普通に楽しそうにしている"みたいな状態自体が最近はあまりない。いい気分だったので、始発を待たず北へ向かって歩く。自宅までは辿り着けず、北浜あたりで疲れてタクシーに乗ってしまったあたりに若さの消失を感じる。

 

某日

 参院選投票。投票に行こうの呼びかけのみが加熱し、参院選/衆議院の構成や日本の国家運営ないしは選挙の(義務教育で習う程度の)本当に基本的なシステムすら理解している人が多くない割に、枝葉の議論だけが過激になっていくのは本当に居心地が悪く、選挙の少し前に「せめて憲法改正案の草稿くらいは読みましょうよ」みたいなツイートをしてしまったのちに、ビビって消してしまったりしたのである。

 自分は電機連合下の企業で働き、その労働組合の一員として仕事をしているわけであるが、擁立議員を参院選で勝たせます、という労組の活動が、(レベル感の差を理解した上で)種々の既得権益固守のための邪悪なムーブと地続きなものに見えてしまったりなどする。投票日前日に、会社で業界擁立の議員が最後の呼びかけをしているのを横目に複雑な気持ちになるのである。

 格差の是正を願っている風でありつつ、入社以来、給与の大半は米国株のインデックス購入に充てられており、ビックテックの躍進により自分は利益を得ている。これはもはやたぬき野郎の所業ということもできるのではないか?

 国の財産を一か所に集めて国民全員に均等に再分配するボタンが目の前に現れたら今なら自分はおそらく押してしまう可能性が高いが、それも結局楽になりたいだけのポジショントークでしかない。

 蓋を開けてみると電機連合擁立議員は落選し、一方でガーシーは議席を獲得している。大阪区4議席は自維維公。以後連日テレビでは統一教会関連のニュース。一瞬げんなりしただけ、生活はそのまま続く。

 

某日

 会社の飲み会に呼ばれてしまい、二つ返事で「はい、行きます」といった返答をした。蓋を開けてみると、意外と集まりが悪く、一瞬ミスったかなと思う。
 コロナウイルスの勃興と共に一度は消えかかった会社の飲み会という概念が、また不死鳥のように舞い戻ってきたわけであるが、思い返してみても、毛嫌いするに値するような嫌な思い出なんてものはほぼなく、今回もまたつつがなく終了するわけである。
おもんない人なんておらず、そこにあるのは相性のみであると考えると、ぬるぬるとスルーしてきた数多の飲み会の中に、人生を変える何かがあったかもしれないが、そんなことは知る由もない。
 永井荷風が「偏奇館漫録」というエッセイで、詩をやるやつは酒飲まんでもOK、でも飲むやつは詩をやらなダメやで、といった意の文を書いているのを思い出す。そのセンテンスは"経世の志士松本楼に酔えば帰りの電車でゲロを吐くのみ。"と締められる。最近はよくない自制が効いている気もする。最後に吐くまで飲んだのは、いったい何年前なのかも思い出せない。
(神戸のいい感じの店主がやってるいい感じの本屋、本の栞さんのインスタ連載企画”日記群/nikkigun”に提供した文章です

 

某日

 誕生日を迎え晴れて31歳に。夏にアルバムを出します・・・などといい続けていた時点でのアルバム発売目標日であったが、結局一ヶ月遅らせることにして告知。ティザー動画を突貫で作って告知するも、曲順やスペルなどミスりまくってて最悪。そのうち上げなおします。失礼いたしました。

 

某日

 seihoさんに関する件の告発。

 クラブ、ないしは音楽業界での、種々様々な終わってるハラスメントが横行しているのは事実である。おしまいエピソードには枚挙にいとまがなく、それは自分と関係がないところで起こっていたり、現場に居合わせているが止められなかったり、はたまた自分が加担していたり、当事者だったりするのである。

 お気持ち表明はネガティブなトラブルにはあまり役に立たず、基本的に問題を解決するにはシステムをどうにかするしかないというのが自分の考えであるので、業界全体でのシステムやガイドラインの構築を望みます。

 

某日

 アルバムのデータ入稿。細々した外注を除き、in the blue shirt活動のステークホルダーは自分のみであるので、終わらせるも終わらせないも全て自分の塩梅であるのだから恐ろしい。作品を出すことよりも作る作業それ自体が楽しく、工程が目的となってしまっているとも言える自分に、ちゃんとリリースを定期的にしようという意思が残っているのも不思議な話である。

 前作のEPも個人的に結構いいものが出来たと思っているが、出しっぱなしで何もしなかった反省があるので、今回は収録曲からビジュアルを自由に連想してもらう動画連載企画”Free Association”を立ち上げた訳である。年内くらいまではこれで遊ぼうと思っいて、それが今の自分の最大の楽しみとも言えます。

「音楽(ないしはその他創作物)の消費スピードが早すぎる」みたいな雰囲気もあるこの頃、周りに不満を述べても仕方がなく、自分の作品を自らが延々としゃぶり続けるウロボロスになるしかないというのが結論で、創作活動を楽しんでそうな友人知人の助けも借りながら、こんなんできた、たのし〜くらいの温度感をずっと続けられたらいいなと思います。8/26配信開始です。アルバムセルフレビューも別途!

 

むだい

某日

 asiaでカウントダウンイベントに出演。年越しをクラブでするのは7-8年ぶりな気がしている(確認すればわかることであるがあえてせず)。

 大阪市内の自転車圏内のみで生活するようになって久しく、年の最終日にして、今年初めて会う人がほとんどなのが不思議な感覚である。音楽イベントで人が集まることを自分はよく”親戚の集まりのよう”と形容するが、定期的に会うリアル親戚がもうほとんど居なくなってしまった今、このコミュニティの自分にとっての擬似親戚っぽい機能は増すばかりである。これはありがたくもあるが、素直に喜んでいいのかは謎である。

 都内でのライブセットは久しぶりで、テンション高めに設定したはずがasiaのtwich配信のアーカイブをを見返すとだいぶ控えめな感じであり、世間とのギャップがじわじわと広がっているのかもしれない。

 

某日

 間も無く無くなってしまう新木場agehaに出演。agehaによく出ていたわけでもなく、客層も見慣れない感じで、さらに出番が朝方であったためいまいち緊張感のないまま過ごす。

 なんせ人の数が多いため、いろいろな人に近況報告をしたりされたりする。と言ってもうわべの挨拶をこなしていくという感じではなく、一人一人なかなかにじっくり話ができて実に助かる。人が多すぎると一周回って個々人とパーソナルな話ができるという発見。「最近どう?」と聞きたい人がいて、聞いてもらえるだけで人生はまあ十分であると感じる。

 テントに入りきらないほどのお客さんの前で自分の出番。何をやっても盛り上がるんじゃないかみたいなオーディエンスのテンション。この状況に対しての自分の寄与がゼロだとは言わないが、とてつもなく巨大な"てこ"の末端を数ミリ程度動かす権利をもらっただけと言った感覚である。音楽は同期摂取のハードルが他のエンタメに対して低いため、てこが効きやすい。貴重な機会なのでありがたく楽しませていただきました。

 「新木場くる用事なくなりましたね」みたいな話をしながら帰宅。確かに当分のあいだ新木場に来ることはないであろう。そんな感じで、今まではよく行っていたが、何かを境にすっかり行かなくなった他の土地のことを考えてみたが、正直生活圏内や一部の都会を除いて、だいたいがそうである。自分にとって特別な意味のある土地、みたいな場所はあって欲しいが、実際のところ用事があるかないかだけみたいな感じである。

 

某日

 ソーコアでDJ。告知が適当すぎたこともありお客さんが片手で数えられるほどしかおらず、数日前のagehaとのコントラストにクラクラする。そもそもお客さんの人数なんてものは人気や実力のバロメータとしてガバガバであり、少なかったり、全然いなかったりのそれ自体はどうでも良いのである。そんなことより、東京以外の土地で自分の音楽を気に入ってくれている人に対しての、共感コミュニティみたいなものを提供できないのがいちばんの問題であるように感じている。

 一人で音楽を聴いて楽しんでいる、ないしはガラガラのフロアでプレイを見ているだけで満足する人ばかりであればそれでいいが、そういうわけでもないであろう。個人主観の絶対評価だけでコンテンツの良し悪しを判断して楽しめる人間は結構特殊である。マジでうまいと思った飯屋がいつもガラガラで、さらに食べログ評価がゴミカスであったり、レビューがさっぱりついていなかったりしたときに、自分の舌を信じ抜けよみたいな態度ではどうもいられない。

 

某日

 大阪のヤングガンbravenの作ってくれたリミックスの動画編集。撮影(とはいっても定点で5カット程度撮っただけ)自体は去年の秋くらいに済ませていたが、「音源仕上げますわ」と言ってから音沙汰がないまま年が明け今に至る。そもそも「動画撮ろうや」と言う話を自分から彼にしてから具体的に動き出すまで数ヶ月放置、曲の原型が来てからまた数ヶ月放置、と先送りドッヂボールを繰り返し続けており、最終音源と映像素材が手元に存在している今このタイミングですらまた先送りの悪魔がおれに囁いてくるわけである。チュートリアル徳井氏の脱税時の名コメントを胸に、覚悟を決め夏休み最終日テンションでbravenとなんとか動画を公開。内容には満足。締切なき制作こそが本懐である。

 一方で、せっかく他人に協力をしてもらったのに、再生数みたいなわかりやすい結果で報いることができないのは最近の悩みでもある。数字の利害関係のみでやりとりするような人と組むことはないが、手伝ってくれた人には単純になんらかの儲けを得て欲しいみたいなすけべ心はある。すけべなだけでそんな力はない。

 

某日

 トマソンスタジオ最終日。機材やらを人にあげたり売ったりしながら片付けを進める。こうして見ているとすべてが遠い昔のように思えるが、すべて最近の話である。恐ろしいことにコアメンバー(という概念があるのかはわからないが)のみならず、関わってくれた周縁の人間も今や大半が関西から飛び立っていき、幸いなことに皆めいめいのフィールドで活躍している。嬉しくもあり寂しくもある。この構図自体が地方での活動の難しさそのものでもあるが、そもそもこのメンバーには関西にいないと出会えなかったわけであり、それは損得でははかれないプライスレス事象である。

 

某日

 コロナ感染者数がまた増加し、なんとも言えない世間のムード。年末年始に呑気に音楽イベントに出演してしまっている身分として、このシチュエーションの負の加担者である事実は明確である。

 そんな中トマドさんから電話がかかってくる。「マルチネイベの開催にあたっての意見を確認したく・・・」みたいな内容で、「一晩考えさせてください」という感じの返事。一晩考えて翌日、自分が回答するより先に開催延期決定の旨を伝えられる。

 イベントが一旦開催されなくなり、自分の意思やスタンスを開示の必要性や、そもそも”コロナ禍に音楽イベントってどうなん?”という問いへの自分の暫定回答をする必要性が一旦保留になったわけであるが、こう言った問いへの最新回答を常に持っていない時点で不誠実であるように思う。情けない。

 

某日

 ロシアがウクライナへの侵攻を開始。棚上げしていた各種の”問い”に対する暫定回答を早く作れと強いられている気持ちになる。例えば明日もし日本の核保有の是非について国民投票が実施されたとしたら、自分は意思を持ってどちらかに投票できるのであろうか?問われるのはいつかわからず、そしてそれはトマドさんからの電話のように突然やってくる。

 プラクティカルな姿勢というか、生活コスパみたいなことを考えると、ウクライナ情勢の正確な情報を収集するよりも明日の花粉飛散量の予報を見ることに注力すべきとなってしまう。どこまでが自分ごとで、どの程度の事柄まで”俺の公式回答”を準備しておくべきなのだろうか?SNSでの流行りの話題に逐一言及するのはなるべく避けているが、どのトピックスに対してもなんの意見も言えない人間にはなりたくない。あと最近はあらゆる情報が、その情報を得た誰かのリアクションと共にやってくる。ぽまいらのリアクションの前に、漏れの考えを準備させて、クレメンス☆

 

某日

 あまりにニュースから得られる情報に対する解像度が低いため山川の世界史Bの教科書を購入する。原始時代から始まって時代に沿って現代社会に至る構成であるが、本題に入る前に気候変動、漂流民、砂糖と三トピックスについてのコラムが掲載されており、それにいたく感動してしまった。世界史を学ぶことによってどのような視座が得られるのか?に」対してヒト、モノ、コトを対象に例を挙げ、「な、世界史おもろいやろ?」と問いかけるべく編纂されているのである。これまでの環境問題に過去人類はどう立ち向かった?海を跨いだ人の交流は何をもたらした?普段食ってる食べ物の背後の壮大なストーリーとは?なるほど学ぶ上での動機づけとして隙がなく、!プログラミングで月収50マン!とか言っている奴らには一生できないエディットである。この世には深い心意気を感じられる作品が(教科書をそう呼ぶのが適切かは知らん)がある。その心意気を感じ取るためには知恵が必要である。そこでまた世界史を学んで得た視座が役に立ち……

 

某日
 朝方まで寝られず、明け方にふらっとコンビニに向かう。コンビニから出てきた若い男女が自転車二人乗りで発進しようとしており、男が自転車を漕ぎ出しながら、後ろの女性に向かって「軽いっすね!」と叫んでいた。敬語だし女性が先輩なのか、そんなに親しくはなさそうやな、朝まで飲み会してたんか、方向が同じで送り届けるだけなのか、意気投合してどちらかの家に向かうのか・・・たった一言で考えられるシチュエーションが次々と頭に浮かんできて、極めて俳句的な情景であるなと感じてしまった。

 

某日

 ジョコビッチやカイリーアービングなど、反ワクチンのスポーツ選手を見ていると、自由の優先順位について改めて考えさせられる。自由を全体最適のための手段としてみるか、公衆の利益を超越した絶対権利と考えるかという話で、(ワクチンの効果は有意であるという仮定の下で)カイリーを空気が読めない迷惑なやつとするのか、当然の権利を行使していると考えるべきかの話である。ジョコビッチはワクチン打たなくていい。ここまでは良いがじゃあテニスプレイヤーとしての活動はどこまで制限されるのがリーズナブルなの?みたいなことを大真面目にロールズの正義論とか引っ張り出して考えてみるのである。とにかく自分はコミュニタリアンっぽさがあるということだけがわかる。

 

某日

 渋谷でasia周年イベント。リハ前にVaVaくんシャケさんバツ西山と飯。「作品が完成した日、自分へのご褒美として贅沢するなら何する?」という話題。牛角ではなく叙々苑にいくことで得られるものはなんなのか?みたいな話をしながら、最終的に”風呂を満タンにして溢れさす”的行為こそが贅沢だみたいな感じに着地。心の中の大槻班長は「へただなあ、カイジくん。へたっぴさ……..!」と言っている。

 

某日

 川辺くんとの共作曲のアートワークをやってもらった坂内拓氏の個展へ。「どういう経緯で僕に辿り着いたんですか?」と質問されるがいまいちうまく答えられず。言いたいことをめちゃくちゃ端折ると「私の曲のことをわかってくれそうな作品を作っているからです」という感じになるが、会っていきなり言うにはキモいというか小っ恥ずかしい話であり、そしていまさら説明するのも野暮であるとも言える。

 音楽で飯を食ってるわけではないのが功を奏してか、何かを頼んだりするときは大体がおれのことをわかってくれそうな人〜という軸だけで人選させていただけるのでいい感じではある。リリースでの収支を無視して作品を買っていると思えば安すぎるくらいで、頼まなければ存在しなかった創作物が自分の依頼で生まれるのはつくづく本当に得である。

 

某日

 秋葉原MOGRAで三十路ナイト。もう三十路かよ……みたいなのは言うまでもなく。今回は友達ばっかりであったが、こう生まれ年が同じ、という、性格とか嗜好とかの属性があまり関係ない共通項のみで人を集めるみたいなのはもっとやっていいような。満足げな原くんと酔っ払ったままタクシーに乗り込むリカックス。おれはドーミーインの大浴場で朝風呂。

 4時間程度の睡眠ののちマルチネイベントのため表参道wall&wallへ。実物を知らぬままだいぶ経ってしまったマルチネニュージェネレーションとの交流。みな気持ちが音を越えている感じ。なんとなく満タンの風呂を溢れさせているイメージが浮かぶ。音を歪ませる、高音のボイスサンプルが掠れていく、聞き慣れないテクスチャの音が鳴る…美しい彫刻を遠くから眺める良さとは違う、小皿の大盛り的なオーバーフロー感。あとまとまった時間をかけるライブセットはその人の個性がよくわかっていい。

 サブスクに合わせ短い曲が増えていて〜シングルが重視されて〜みたいな話はあるが、音楽で遠くへ行くにはある程度の時間的長さが必要な気はしている。あと個人的に音楽の好きなところは鑑賞の専念を強制されないところで、耳以外は空いているので、散歩したり運動したり、関係ないことと並行できる。時間はかけるけど集中はしていない、というのは自分の性に合っている。クラブやDJも然り。そういう意味でやっぱみんなアルバムを出して欲しいな〜とは思う。飯食ってホテル帰って爆睡。

 目覚めると藤本タツキ氏のさよなら絵梨が公開されている。自分はどこまで行っても創作賛美的な感じのものに惹かれてしまうのは認めないといけない。とはいっても創作のパワーを崇めるというよりは、創作物だけでなく創作行為自体も好き、というだけである。映画が好きで、かつ映画を撮るという行為も好きだと、映画を撮る行為も含めた題材の選び方になるが、それはテクニカルな面を面白がってメタ構造にしているわけではなかったりするのではとは思う。

 個人性の強いものが好きで1人で音楽を作っている自分に対して、映画という人手のかかる総合芸術リファレンスで個人制作するのは大変そうやな〜と他人事のような気持ち。自宅に着くや爆睡。有給とった翌日もまた爆睡。

 

某日

 西山くんの引っ越しを理由に定期ハウス界ALTN最終回。関西で定期的にDJをする機会が消滅。これは健康に響くのでどうにかしないといけない。

無題

某日

 パ音西山くんの家に収容され、だらだら喋っているうちに朝になってしまった。帰り道に自転車を漕いでいるとなか卯が開いており吸い込まれるように入店。朝帰りのなか卯が可能になった喜びと、不要不急の外食へのいたたまれなさの間で揺れる。コロナがなくなったら何がしたいかと問われた時に、オール後朝なか卯以外の答えを準備しておかないといけない。

 ありがたくも新譜See-VoiceのCDを貰ったので家で改めて聴く。友達の曲を曲を聴くよりおもろいことなんかない云々を抜きにして、この瘴気にまみれた自己観照アルバムを完成させた二人にビックリスペクト。

 

某日

 鈴木真海子氏のビルボード公演でドラムを叩きに大阪にきていた髙橋良が近所をウロウロしているようだったので自宅に収容。チェルミコのフィクサー視点によるだべり。

 翌日に皆の勇姿を見にビルボードへ、高価なお食事でもいただきながら見るかと空腹状態で突入するも、感染対策の関係か入場時点で既に食事の注文はやっておらず。飲み物をちびちび飲みながら貴族のボックス席で貴族鑑賞。飲み物がなくなったら即横からスタッフがやってきてお冷を注がれる徹底ぶりと皆の素晴らしい演奏に感動。ただでさえバンド演奏を生で見る機会は随分減ってしまったが、こうやって減量中の焼肉みたいな感じで摂取するのも悪くはない。

 

某日

 イベント出演で関西にきていたパーゴルが来訪。酒飲んで銭湯行って就寝。リビングで氏が寝ている横の部屋で在宅勤務。音楽関連の諸々とサラリーマン仕事という自分の中で相容れない2つの要素が謎に物理的接近をみせ謎の興奮。昼に食いに行ったスパイスきつめのカレー屋で自分以外全員体調不良に。腹を鍛えてください。

 

某日

 仕事で大阪にきていたセイメイを梅田で拾う。阪急百貨店に入ったはいいが閉店時間まで残り10分しかなく、急いで適当に買った材料が謎に立派なものばかりで、自宅にてご立派鍋とご立派果物を振る舞う結果に。話題は近況報告と昔話を半分半分。昔話おじさんにはなりたくないが、昔話をする面白さに抗えぬ部分もある。

 

11月某日

 いまだに軽装で外出しており、ふと「去年の今頃の気温はどんくらいだったっけ?」と考える。四季30周目の周回プレーヤーにしてそんなことも思い出せないので、やはり人間の記憶というのは信用ならない。できることは能動的に記録をすることと、定期的に振り返ることのみである。

 

某日

 クソ動画連作1.2.以来なかなか買ったカメラを持ち出す機会がなく、それといった用事もないので近所の公園に行って適当にカメラを回す。動画を撮ったりなどしていると、自分のアンチポートレート的な気質を自覚せざるを得ない。世の中は本当に人物にフォーカスしすぎている・・・と思ってしまうが狂っているのは世か己か。こうして自らの大まかな気質を理解したところでド素人が自己認知をはじめたにすぎず、嗜好に対して撮影技術が大幅にビハインドしている状態である。上達の近道はネットにうpですよ奥さん、といいながら投稿している公園クソ動画シリーズのおかげでだんだん次回作の的が定まっていくような気分に。

 

某日

 spotifyAPIから取得できる、BPMやキーなどの客観データ以外の楽曲定量化パラメータのチョイス(Danceability/Energyなど)が実に興味深く、自分が曲を聴く上でなにか指標にしているものがないかをしばらく考える。熟考の末ついに"打算度合い"という謎のパラメータが頭に浮かぶ。こういう要素を入れるとこういう層に訴求する、このアーティストの起用で再生数がこれくらい狙える、みたいマーケティング的なものから、海外市場を狙うためにドメスティックなアレンジは避けよう的なポジション取り的なものまでをなんとなく"打算"という括りで捉え、その程度を測っている節が自分にはある。そして基本的にアンチ打算である。次のアルバムは脱打算を目指そう、となんとなく確定。

  

某日

 チャオパニックコラボのPR動画を作らせていただいたTHE UNION牧田さんと杉生さんと飯。大手セレクトショップは当たり前であるが全国に店舗があり、各店舗のスタッフが一斉に販促するのでその規模感にくらってしまいましたよ、みたいな話をした記憶。大規模な広告案件ばかりを触っている代理店の人間が、上から全てをコントロールできているかのような身分不相応な全能感を振りかざすバッドイベントがごくたまに発生するが、そういう気持ちになってしまうことは全く理解できないものではなく、牧田さんや杉生さんなどプレイヤーファーストを維持できる人間の方が変わっているのかもしれない。

 「ここの店の天津飯はすごいから」と言われ出てきた天津飯が確かにすごく、こんな飯がそこらへんにあるのでやはり大阪は侮れない。

 

某日

 平日の定期DJイベントことALTN。わざわざきていただいているお客さんに不親切すぎる作りのイベントになってるんじゃないのかという気持ちと、1人で黙々と聞いてこそ見たいな気持ちが半分半分。クラブイベントにおいて提供されるべきサービスのレベルへの認識は人によりすぎるのである。自分の話だけでいうと月に一回買った音源を整理してDJするだけで頭は随分スッキリする。

 途中で「ポッキーの日ですからね」とヤックルがポッキーを渡してきたが、そのムーブはまさにそのまま自分に足りない部分である。

 

某日

 衆議院選挙の投票日。”無邪気な選挙に行こう呼びかけはソーシャルグッドなのか?”問題を考えていたら朝になってしまい、どのみち選挙には行くべきなのでそのまま寝ずに投票へ。会場が近所の小学校であったが、もはや懐かしいを通り越して意味不明の施設にすら感じられてしまった。

 自分の選挙区は(大阪は他もだいたいそうであろうが)与党候補と維新の候補の二強で、ほぼ他の候補者への投票がほぼ間違いなく死に票になるといった状況である。こういった場合に、もしその2トップ以外を支持するとすると選択肢は2つあり、そのまま真っ直ぐ意中の支持者ないしは政党に投票するか、死に票を回避し2トップの二択問題と捉えるかである。そして自分はいつまで経っても後者みたいな捉え方はなんとかくこざかしさがあるように感じてしまうのである。そしてそれは自分の厄介さ成分と繋がるような気がしてしまった。夜のニュースは維新の躍進を伝えていた。

 

某日

 ラグナセカ小田川氏がヤングジェネレーションを集めてくるという謎の会合。高校生DatHisくんの「M1 Mac買ってもらったんでマジで何でもできて最近ずっと楽しいです!!」みたいな夢が広がりんぐトークを聞きながら、前途ある人間には適切な道具が与えられて然るべきであると思うと同時に、やはりそういう面で世の中は良くなっていると感じてしまった。いい時代になったが、やるやつはどの時代に生まれようが勝手に作るので関係ないとも言えるが。

 後日、tofubeats氏とこちらも高校生Telematic Visions氏がtwitterスペースでサシで会話している珍奇な機会が発生。話の流れで使っていない大昔のThinkpadをTelematic Visions氏に送付。インターネットの怪しいおっさんからステッカーまみれのPCが突然送付され親御さんに不審に思われないだろうか・・・と心配するも、後日しっかり活用されていて一安心。

 

某日

 仕事で、ろくに使ったことない装置を使った実験をしなければならなくなり、同世代の同僚に使い方を教わる機会が。「この借りはなにかしらで返しますよ」みたいなことを言ったタイミングで謎にギブアンドテイク論みたいな話題になり、「ギブ/テイク収支はロングスパンで考えられる方が精神衛生上いいし、さらにいうと必ずしも同じ人に返す必要もない、それができるのは大企業の利点」みたいな部分に着地。どちらかというと個人主義的な志向を持ち、だいたいの組織にいまいち溶け込みきらない人生を送ってきた自分であるが、(なにに対してかは不明だが)妙な腹落ち感があったのである。

 クラシック終身雇用スタイルに対して、案件ごとに集まって事が済めば散開するような仕事でギブ/テイク収支をあわせようと考えると、その案件期間、関連人物内で済ませねばならないことになる。帳尻合わせを個人単位にまで小さくすると、ビジネス&ドライな付き合いに終始し、、貸しも借りも作らないのが最適戦略にすら思えてしまう。

 かたやネットや知人の無償の知識提供で音楽制作を習得した個人事業主としての自分は借りまくり(かつ幾分かは貸しまくり)で、漠然と音楽シーンみたいな総体でギブテイク帳尻を認識している節がある。

 先輩に奢られ続けた奴がいずれ後輩に奢るようになる、みたいな体育会奢りメソッドなどがまさにそうであるが、自分はこの手のロングスパン&貸借主の不一致の許容範囲をでかくしたいという考えであることに改めて気付かされてしまった。

 ここまで考えて、このギブアンドテイク帳尻の範囲を考えることは、社会福祉ないしは政治デザインを考えることとほぼ同義であることに気がつく。志向する帳尻範囲が小さすぎるとホームレスは生きてる価値なし的なイデオロギーに至る。進研ゼミさながら、「これは衆議院選挙の投票先を決めるときにやったやつだ!」。

 

某日

 ふと立ち寄った梅田3番街の文房具屋にデッサン人形(間接付きの木の人形)が売っていた。上手に人の絵を描こうと思ったら、関節の位置や動作の方向を正しく理解したほうがよく、神絵師は自分の100倍人体の構造を理解しているわけである。絵が上手くなりたいという一心で、期せずして人体構造への知見が深まる、というのはまさに自分の目指す教養獲得プロセスである。

 正確に効かせないといけないトレーニーもまた同様に人体構造に明るいよな〜と、筋肉系YouTuberの動画を見ていると、おしなべてみな自炊に炊けていることに気がつく。マッチョになりたい一心で、期せずして正しい栄養摂取への知識と実践的な料理のスキルを獲得するのである。美しい教養獲得、デッサン人形メソッド!

 

某日

 ご近所アーティストLil Soft Tennisと焼肉。ろくに喋ったこともないがっつり年下に飯に誘われるなんてことは記憶の限りほぼ思いたらず。やや恟々と赴くも、当の本人はのっけからやたら抽象的な話を連発、あまり味わったことのないコミュニケーションに面食らいつつも、徐々に要領を得、随分と長いこと話し込んでしまった。ちゃんとやってる/やってない論、カマすとはなんなのか、彼目線のシーンの感じの所感、自分の曲は聞き手に理解されているのか・・・など。膝を打つほどすごいよくわかる部分と、世代ギャップなど諸々の事情でよく理解できなかった部分とが混在しており、彼の音楽を聞いている時とほぼ同じ気持ちに。

 なにか悩みや問題があり、それを解決できそうな人間にお伺いを立てるという駆け込み寺スタイルではなく、話しながら漠然と脳内ブレイクスルーの糸口を掴みたいみたいなことは自分にもあるなと思いながら帰宅。

 

某日

 NC4Kから出たイサゲンとセキトバの曲のリリパ。友達だらけのリミキサー陣が大集合、それにかこつけてか懐かしい面々がたくさん来てくれたこともありどうしても昔のことを思い出してしまう。20代前半、"セミ無職"を自称するような人間の集まりであったはずなのに、気づけば皆仕事や家庭、制作などをめいめいのバランスで立派にこなしている。

 思えば遠くへ来たもんだ….と感情に浸りつつ久しぶりのライブセット。

 別に日常的に連絡を取り合うわけでもなければなんなら個人的にそんなに遊んだことない人も含めて、冗談抜きで全員心からの友人のように感じていて、そういう自分の人付き合いのスタンスも含めてつくづく京都で過ごした日々は不思議なものである。

 関西住みとしてのセキトバとの共演はおそらくこれでラスト。ますますのご活躍をお祈りするほかなし。やや寂しいですね。

 

某日

 無事有馬記念で撃沈。来年は諸々頑張ります。