"Park with a Pond" inspo 書籍編 (随時追記)

"Park with a Pond" を作るにあたって影響を受けた本を書いていこうと思いましたが、途中でだるくなったので書きかけで公開しました。残りを追記して完全版に至るかは謎です

1.檸檬 (梶井基次郎)

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大阪城公園をぶらぶらしていたところ、あまり綺麗とは言えず底の見えない水堀をぼんやりとみながら「これ死体とか沈んでてもわかんねえなあ」と思ったのがそもそものスタート。(動画は全部大阪城公園で撮影したものです)

 桜の樹の下には 屍体 が埋まっている!

 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。(梶井基次郎

これ梶井基次郎のアレやん!と思うわけである。コロナ禍真っ最中であるのに、公園に来ると恐ろしく平和かつ穏やかで皆楽しそうであり、なんならノーマスク時代と比べると人が少なくより過ごしやすい。一方でドブみたいな堀には(いま思うと城=戦の安易な連想であるが)死体が沈んでいるかも知れない。死体どころかなにが沈んでいるかわからない。死体どころではないかもしれないし、何もないかもしれない。まるで建前に隠された人間の本心のようである。漠然とこれをアルバムのテーマにしようと決めた。大ネタサンプリング感も自分っぽい。

 加えて、自分は梶井基次郎檸檬収録の”桜の樹の下には”という短編が異常に好きであるが、その理由の1つに、誰かに話しかけているような主観語りの視点で終始綴られるから、というのがある。その様子は、自分が音楽を作っている時、ないしは家で一人スピっているときの状態そのものであるように思えてしまうからである。
教科書とかに載っているような作品なので勧めるまでもありませんが、青空文庫で読めますので読めますので未履修の方は全員読んでください

www.aozora.gr.jp

2.雪沼とその周辺 (堀江敏幸)

2020年の夏頃に『正弦曲線』という堀江敏幸のエッセイを読んでいたく感銘を受け、しばらく堀江敏幸の作品をいろいろ読んでいたうちの1作。どれもこんな文章が書きたいと思えるほどの素敵なものである。

この作品はオムニバス形式の(かつそれぞれがたいして干渉し合わない)8篇、一つの街を舞台に、なんらかのアイテムとそれにまつわる自分語り的な回想が繰り返される。そしてとくにセンセーショナルな何かが起こるわけではない。ちょうど出来事濃度が高すぎるエンタメ作品の到達作品であるゲーム・オブ・スローンズをシーズン8まで見切った後だったので、その塩梅があまりに心地よかった記憶。

”おもんない人間なんていない、おもんないのはお前だけ”理論を振りかざす上で、市井の人間のおもしろさがどこに宿るのかを考えさせられてしまった。世界チャンピオン、シャバに出てきたてのアウトローなどの珍しい職業や属性、Youtubeを始めたら即数字を取れるような"濃い"人生の持ち主に対して、悪魔の淡白軍団である平々凡々な平民の美しさに、”みんな違ってみんないい”的な安直なレトリックに逃げずに向き合うには、一人一人の記憶と、それにまつわる話に耳を傾けなければいけないのである。

自分の音楽はストーリー不在である。そんな中で、公園という空間で過ごすそれぞれの人間の心に池があり、別に相互不干渉である、という構想のもとになった気がする。あいつとは仲がいいが、池の中身は知ったこっちゃないのである。池への接近は基本的に回想と語りによってなされる。でもわざわざ池の真実を暴くまでもなく、公園にその雰囲気は表出しており、それこそが個性である。

3.スケートボーディング、空間、都市―身体と建築 (イアン・ホーデン)

もうすでに過去のブログで以下のように書いているが、我々平民が、上述のいわゆる"濃い"人生に比肩するには、スケーターのもつ、都市に対するまなざしの姿勢が必須であるというのが自分の考えである。

いい機会なので、値段が高いと言う理由だけで長らく読まずにいた”スケートボーディング、空間、都市―身体と建築”を買って読む。典型的な、書いてありそうなことが全部書いてある(いい意味で、途中で読むのをやめても問題がないとすら思えた)本であった。人を住まわせて金を稼ぐための市営住宅プロジェクトが生んだ退屈な建築物は、スケボーを持ってすればクリエイティブの対象である。要するに”おもんないアニメなんてない、おもんないのはおまえだけ”(言い出したのが誰かは知らん)、”目に映る全てのものがメッセージ”の精神である。

 スケートボーディングは犯罪か否かを論じることは、音楽のサンプリングと非常によく似ている。リスニングの対象であり、完成物であるはずの音源は、サンプラーを持ってすれば、新しい音楽を生み出すための文字通りの素材である。これは都市とスケーターの関係のミラーである。そしてスケボーは公共物に傷をつけ、サンプリングは著作権を侵す。音楽制作者としての自分は、要するにストリートで学んだが、いまはパークでしか滑らないスケーターである。

4.トーフビーツの難聴日記(トーフビーツ)

リアルタイムで日記が更新され続けるevernoteのリンクが共有されており、わりと書籍発売直前まで更新されていたため、結果として今回の自分のアルバム制作中にずっと読んでいた書き物であるとも言える。

読みながらその書きっぷりと温度感で朝永振一郎教授の「思い出ばなし」を想起し、その旨を連絡したところトーフさんがさっそく朝永振一郎関連の書籍を買っていて、さすがだなと思ったりもした。トーフビーツ朝永振一郎の間に私の見出した共通項のようなものは、自分が音楽にもとめる温度感そのものといってもいいかもしれない。

トーフさんはよく理想の活動の姿勢を「おなじ的に向かって球を投げ続けている」みたいな例え方をする(このインタビューでもその話題に微妙に触れている)が、そういう意味では自分はかなり的が狭い人間である。

tofubeats氏の活動および姿勢の薫陶を受けた結果が今の自分といっても過言ではなく、ありがたいことに1ページもらいtofubeats論についてマジレス文章を寄稿させていただいておりますので是非。

5.春宵十話 (岡 潔)

元々は大学生の頃にネットで見かけた以下のパンチライン

私は数学なんかして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうとスミレのあずかり知らないことだと答えてきた。

の原典に触れたいというシャバい動機で読んだ本である。理系レジェンドのエッセイという意味では朝永振一郎書籍と似ているとも言えるが、以下の文章も含むパンチラインはしがきから始まるこのエッセイは、より主義主張がはっきりしているものであり、なんとなしの日記というよりは、人にを教え導かんとする松下幸之助の文章などに近いバイブスである。

私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。

全体を読むとちょっと前時代的に感じる部分もあるが、数学を突き詰めた人間が、情操の豊かさこそが重要で教育の本懐であると語り続け、さらに表現をすることは生きる上で最重要であると言い切るのはかなり迫力がある。スミレはスミレのように咲け、理由はスミレだから。ではそのスミレさの発現というのはどこから?と考えた時に、平々凡々な我々平民の心の中に、源泉となるきったねえ池があるということである。

6.最短コースでわかる ディープラーニングの数学 (赤石 雅典)

どこかで見かけたDiffusion Modelという生成モデルを用いた連続画像シーケンスの表現に感動してディープラーニングの基礎を勉強開始。別にPyTorchとをはじめとする既存のライブラリを使うだけなら別になーんも知識なんていらんわけやが、初歩は理解しておかないと今後損しそうなので珍しく本を買って勉強。初学者用の本ではこれが一番しっくりきた、理系なら全員これ読んどけばいいと思う。
無理解からくる「AIがクリエイティブ領域をめちゃくちゃにする!」とか「人間の魂が宿っていないものはカス!」みたいな両極端な意見は論外として、所詮どこまでいっても多次元空間に浮かぶ点めがけて数値をどうにかしていくだけ、という感覚はみんなが一度味わっていても良いかもしれない。

トーフビーツ論で言うところの「的」が多次元空間に浮かぶ点であるとするならば、創作活動は1.点の設定、そして2.その点への接近の2つに分けられる。現在AIは雑に後者をやっているだけであるともいえる。完全解析された多次元空間を仮定して、最短距離での最適化プロセスが提示されたとて、その点に本質的な優劣がない以上、たどり着いたところで何がどうというというわけではない。

そんなもんなので、おれが音楽を作る理由がAIによって奪われる可能性は生きている間はまあ低い。的が明確っぽく見えるのは美しいが、自分の的を自分が完全に理解できている(ないしはできる)と思うこと自体がそもそも驕りであり、怠慢である。

そんなこんなで私の習作が以下ですが、stable diffusionの登場前にやっといてよかったなと思う。分子シミュレーションでブラウン運動させまくっていた身分としては、Diffusion Modelの拡散過程というのは実にイメージが容易である。

 

 

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7.ブランクスペース(熊倉献)

スパイファミリーをはじめとするweb連載ベースのヒット作がどうも好みに合わない中、熊倉献氏のこの連載はリアルタイムで完走。ちょうど最終話の公開が8月中旬であったため、これとともにおれのアルバム制作も終わったんや・・・みたいな気持ちに勝手になったりした。『春と盆暗』もそうであるが、人との出会いによって前に進むためのきっかけを得る、みたいな話。スイはクソみたいな人生の中、創作物に救いを求め、最終的に自身も創作を志す。ショーコはスイの趣味嗜好に対しての知識も理解も持ち合わせていないが、心からリスペクトを示しており、二人は良い友人となる。池を暴かずとも心は通う。自分がアルバムでやりたかった感じとかなり近い。

viewer.heros-web.com

8.泣く大人(江國 香織)

女性作家のエッセイが読みたくて購入。全体でいうと好みどストライクというわけではなかった。一方で”ほしいもののこと”という章の中で井戸が欲しいと綴られる部分がある。「公園は平和だが、池には何が?」とするおれと指向はかなり近く、持ってもいない井戸が裏庭にあると仮定して、具体的な利点や効能を羅列する。祖父母の家にも井戸があり、朗らかな思い出と共にある。井戸is平和。でもそれだけが欲しい理由なのかというとそうではない。

ときどき、蓋を開けてのぞき込む。そこはまっ暗で、深くしずまり返っている。冷気がのぼってくると思う。声を出すと、わずかに反響しながらその声が下に落ちていく。別の世界へ。裏庭に別の世界がある、ということの安心!

別世界へのゲート、あちら側へのメタファー。触れられない、得体の知れない場所へと続く穴。家の裏庭にそんなものがあるということを、安心と表現する。この感覚は本当に共感しかない。最後はこう終わる。

やっぱり井戸が欲しいと思う。最後にはきちんと身投げもできるもの。

朗らかさの獲得と、桜の木の下の死体的な物へのゲートとして。美しいものを見たときに、その背後にある禍々しさを見出すどころか、桜-死体セットを意図的に設置したい!という能動。おお〜かなりおれと近い!と勝手な共感。

9.カメラの前で演じること(濱口竜介

「ドライブ・マイ・カー」はあいも変わらずすごい映画であったが、濱口作品に通底するモードに対して、もう一歩、もう一声おれに情報をクレメンス・・・と思いこのタイミングで購入。

野暮は承知でおれの言葉に当てはめるのであれば、「人のからだの動作には池が表出している。カメラの前で演じることというのは、演じる人/演じられる人のもつ池を捉えようとする試みだ」という主張である。

演じる対象を完全憑依させ、寸分の狂いなく対象そのものとして振る舞える状態を、理想の演技とみなさないということである。演じる人/演じられる人のもつ池は違う。差異の認識こそが重要である。さらにその差異を認めるどころか、場合によっては(こと『ハッピーアワー』においては)改稿をも辞さない、とまで言い切る。

「自分は自分のまま。他者は他者のまま」、一緒にやっていく」という人付き合いの難しさは、そのまま想像上のキャラクターを演じる困難さに移し替えられるのだ。他者=キャラクターの尊重はもちろん重要だが、もしかしたらそれ以上に自身の違和感は尊重されなくてはならない。

濱口竜介監督は、映画によって池の表現をしようと腐心していると言える。『ドライブ・マイ・カー』でも『ハッピーアワー』でも執拗に繰り返される、本読みをはじめとする演技の習得の過程を執拗に描写するのは、池の差異の認識作業であり、極めて大きな意味を持つ。

池を伝えるためにすることは、池の水を抜くことではない。まじですごい本なので全員読んで欲しい。

余談としておれは古本で買ったが、いろんなところに円や線の書き込みがあった。その書き込み主とは何一つとしておれとは気が合わなさそうであった。

10.思想としての孤独(清水 学)

11.望郷と海(石原吉郎