無題

 

 最近会う人会う人にプライスレスを連呼するプライスレスおじさんと化しているので、なぜそうなったのかの記録として、公開する気のなかった日記を、普段に増して輪にかけて都合よくエディットして公開します。私が日記を書くのが好きな理由もプライスレス理論(資本で代替不可能なものを愛していきましょうというだけの話)で簡単に説明できます。私の生活でおこったことや、それについて考えたことは資本で代替不可能なのでプライスレス、よって自分の日記もまたプライスレスであるからです。一般化されたライフハック記事よりも友人の代わり映えのしない近況報告の方が聞きたいのも、後者がプライスレスだからです。

 

某日

 電工二種の実技試験。コンビニで鉛筆やらを買い、自転車で会場に向かう。日常のあまりの低刺激さに、もはや人がたくさんいる様子を見るだけでテンションが上がってしまった。

 大教室の長机の指定された位置に着席。リフレインするは学生時代。支給された材料の箱を開けるとアウトレットボックスとPF管が入っており、お、珍しいものが来ましたね、みたいな気持ちになるが、別に問題で難易度に差があるわけでもなく、Youtubeで学んだ通りに施工して無事終了。独学天国である今の環境に感謝。

 試験を終え自転車を取りに行くと、高校生が父親らしき人に「時間が足りなかった、あと5分あればいけた」とがっくりとした顔で報告していた。昨今は"エンジニア"というと説明なしではフロントエンド?バックエンド?と聞き返されてしまうくらいIT(ないしはweb)寄りの世の中ですが、いつだってものづくりを志向する若者の未来を応援したい気持ちであるし、自分自身もまだものづくりを志向する若者である。

 

某日

 放置していたラズパイでLED時計を作成。温度センサDHT22の精度に感動。電工2種の試験の練習で余りまくったリングスリーブで電源を結線したせいで配線の取り回しが悪い。木枠をつけてテレビの上に設置。自分の作った時計が元気に動いているのを見るのは気分が良い。"自分の描いた絵を自宅に飾る"的行為より大事なことなんて世の中にはほとんどない。

 人生での”換金され得ないもの”を考えると、プライスレス領域のベースは自分、次に家族、続いて友人恋人もろもろの人間関係である。といっても自身以外は基本的に他者で制御不能である。それでは市井の人が換金されない領域を能動的に手にするためにできることは?と考えたときに、大げさではなく創作以外のことがあまり思いつかない。

 創作というと大層であるが、大した話ではない。大量生産された工業製品であるフェンダーのギターは換金可能であるが、買うまでが資本の役目であり、それを自らの手で弾いた時点でプライスレスである。コンビニは消費の爆心地であるが、これとこれを一緒に食ったらうめえだろうなと考えた時点でそれはプライスレスである。

 

某日

 30歳の誕生日。子曰わく、三十にして立つ。おれは立っているのか?

 

某日

 オリンピックが開催される。会社のパソコンにあえて貼ったままにしていたTOKYO2020のステッカーも、どこかきまりが悪くなりはがしてしまった。

 

某日

 テレビをつけるとスケボーの中継。意図せずに目に飛び込んできた楽しそうな選手たちの様子に感動を覚えてしまう。ストリートカルチャーに端を欲したスケートボードは当然のように定量化できない価値に重きを置く。スポーツの価値は競技的な順位が全てではない、そんなことは言うまでもないが、そもそも採点不能なものを、相互にリスペクトできるのは積み上げてきたカルチャーの賜物である。

 いい機会なので、値段が高いと言う理由だけで長らく読まずにいた”スケートボーディング、空間、都市―身体と建築”を買って読む。典型的な、書いてありそうなことが全部書いてある(いい意味で、途中で読むのをやめても問題がないとすら思えた)本であった。人を住まわせて金を稼ぐための市営住宅プロジェクトが生んだ退屈な建築物は、スケボーを持ってすればクリエイティブの対象である。要するに”おもんないアニメなんてない、おもんないのはおまえだけ”(言い出したのが誰かは知らん)、”目に映る全てのものがメッセージ”の精神である。

 スケートボーディングは犯罪か否かを論じることは、音楽のサンプリングと非常によく似ている。リスニングの対象であり、完成物であるはずの音源は、サンプラーを持ってすれば、新しい音楽を生み出すための文字通りの素材である。これは都市とスケーターの関係のミラーである。そしてスケボーは公共物に傷をつけ、サンプリングは著作権を侵す。音楽制作者としての自分は、要するにストリートで学んだが、いまはパークでしか滑らないスケーターである。

 

某日

 RTA JAPANの配信を視聴。RTAを好きな理由は、言うまでもなくそれがスケートボーディングであるからである。ロール・プレイング・ゲームいうところのロールなんてものは無視し、バグとともに裸でラストダンジョンに到達するリンク(BoWのリンクは奇遇にも文字通りのスケボー行為もする)の動きは、そのゲームを深く知り尽くしたもののみが獲得できる。一方でその遊び方は本来意図されていない。時短のために女の子のフラグを折り続け、近所の公園にしかデートに行かないときめきメモリアルにはときめきもメモリーもないが、ようするにゴン攻めで、リスペクトの対象である。

 結局自分は単純な消費でなく創作的行為を伴うものが好きなのである。なぜ創作行為を重視するかと言うと、それが資本で代替不可能だからである。

 RTA的なものに対して、野暮な人が抱く疑問はほぼ決まっていて「何の意味があるんですか?」と言った類のものである。そういったときに往々として話が噛み合わない大体の理由は、そういった質問での”意味”の指すところが資本価値だからであり、その観点からはRTA側の追い求めるおもろさを捉えることはできない。

 資本主義とは乱暴に言うと定量化であり、定量化の目的は比較のためである。お前の年収は?フォロワー数は?再生数は?RTAというのは時間を競っているわけであるが、”競技化”もあくまでハックの一環であり、定量化の皮を被ったプライスレスである。ときめきメモリアルをゴン攻めできるできるということはひたすらに文化的な行為である。価値を転覆させ、自分基準の価値を創出する。資本の方向に実数軸が伸びているなら複素数空間に行け!虚数は存在しないというやつに中指を立てろ!おもんないゲームなんてない、おもんないのはおまえだけ!

 

某日

 takawo氏の "generativemasks"というNFTアートのプロジェクトが旋風を巻き起こす様子を目の当たりにする。takawa氏の志向を雑にまとめると、日々の創作の意義と楽しさの周知、そしてコミュニティの発展である。口で言うのは簡単で、ありきたりであるようにも思えるが、この一朝一夕では成し得ない目標に対して、果てしなく長いスパンで一歩ずつ実践している人というのは希少である。「単価うん十万円の案件を獲得するためにプログラミングを学びましょう!」と「日々を美しくするためにコードを書きましょう!」は並走するが、代替不可能なのは後者。

 プライスレス志向の人間のプライスレス行為がプライスビックバンを起こし、またプライスレスに収斂していく(無理矢理させる?)様は大変だろうが爽快でもある。自分が太郎とやっているDTMワークショップpotluck labにも毎回参加していただいているが、それは単純に音楽制作への興味は前提として、自分らの活動や考え方への賛同の姿勢であると受け取っており、プライスレス軍団の一員としてまた我々もプライスレス還元をしなければならない。

 takawo氏の件に限らず、NFTアートというのはここ最近では珍しいインターネットでの夢が広がりんぐ案件であるとみることもできるが、一方で投機的な資本主義ネクストミュータントとしての側面もあり、実にハイブリットである。ブロックチェーンがチェーンであり、インターネットがネットでありウェブである、すなわち繋がり伝搬する美味しい部分が、資本を持ってのみオーバーヒートする投機成分の邪悪パワーに負けないことを願う。

 

某日

 ニンジャドリンクスワインの訃報。FOGPAK初期、INNITなど自分がクラブに出はじめたころにできた友人知人に対しては独特の感情がありかなりのキツさ。”自分経由の感染で人が死ぬかもしれない”の「かもしれない」に対しての無自覚さを思い知らされる。なにをどう天秤にかけても自分がいまクラブに出演する理由が見当たらない。

 当時の周辺人物で「音楽で食う」と明言していた中の一人が彼である。思い返すと、あの頃から音楽で食うと言っていた人はなるほど確かにほぼ全員音楽で食っている。昔の自分がいかに何も考えていなかったかがわかる。

 

某日

 フジロックが開催されるにあたって、各ミュージシャンが参加に際して立て続けに声明を出していたが、のるにもそるにもその大半の真意をあまりよく理解ができず。そんな自分は会社に出社しろと命じられた日はのこのこと出社をするわけである。

 音楽を作る、演奏をすると言う行為は、そもそも資本に代替不可なオンリーワンな価値を生み出す営みであるから、本質的にはプライスレスである。と同時に、感情に作用するという根本の性質と、(録音物であれば)複製が容易である、大人数での同時視聴が可能であるなどのおまけによって換金にも向く。

 ミュージシャンは左寄りだから・・・みたいなものも、ただ音楽の本質的なプライスレス性が資本や権力の右向きの重力の外側にあるというだけで、音楽で暮らす専業ミュージシャンは資本の重力場の上に立っている。ミュージシャンのできることは、プライスレス性と換金作業の境界を意図的にうやむやにするタイプのズルをしないことである。アーティストサイドの第一歩は、「ミュージシャンはパンピーとは違う高尚さがある」という幻想や、その幻想の悪用を止めることである。

 そういう意味で、換金作業と創作活動がそもそも別の箱に入っている我々のようなサンデーミュージシャンというのは、外乱に立ち向かうための冗長システムであるとも言える。賃金労働者が可処分時間で創作をするということは、その業界のロバストネスを高めるのである。

 そしてそもそも、音楽家、ないしはイベント運営がコロナで大爆死する様を自己責任だと笑うような人間はクソであり、そういうやつの言うところの先見の明なんてものはハナから存在していない。

 

某日

 電工二種の合格通知が到着。最寄りのセンターに合格通知とともに切った写真を郵送すると、それが手作業でラミネートされて免状として送り返されてくる仕組みで、そのあまりのローテクさに驚いてしまった。必要もない資格を遊びで取ってしまい、お手数をおかけしました。先の見えぬ世の中、デジタルでの公務の効率化はリアルな伸び代である。頼むぞ、デジタル省・・・日本を変えてくれクレメンス・・・

 

某日

 突然父が家にやってきて、まあろくな話じゃないだろうなと身構えるが、案の定まあまあな額の金を貸してくれと言ってくる。理由を言わないため、応じる道理もないが、大学院まで行ったエクストラコストを返却すると考えると合点のいく額だったので振り込み。

 父の人生の目標は西宮某所にマンションを買うことであった。持たざる者の挑戦の人生とも言える。大学に行き、大企業に就職した。単身赴任で釧路に飛ばされ、それでもめげずに金を貯めた。目標額に到達し、関西に帰ってくると子供はもう大人になっていた。父は自分の思春期を見ていない。マンションを購入した父は力尽きて仕事をやめた。自分の知る限り退職後の父は生き甲斐らしいものを見つけられているようには見えず、そして詳しい理由はわからないが、父の手元には今金がないのである。

 音楽を続けることばかりを考えている自分の志向は、父が抱いてきた信念と相反する。「そういう舐めたやつは社会では通用しない」と散々言われたが、会社に身を捧げ昇進を目指すモチベーションが湧かないのも、金を稼ぐ以外の行為のプライオリティが高いのも、全て父の反面教師である。一方で、父が自分の曲を聴いたり、youtubeチャンネルを見ていることも知っている。小さい頃から、自らの意思でしようとしたことを止められたことはない。そもそも自分の教養や、モラトリアムでの音楽という手段の獲得も、全て父の資本が土台にあるのである。

 トラブルとは無縁のサラリーマン家庭であると思っていたが、今思い返すと事の根源は家族のコミュニケーション不足であるように思え、過去に戻って火種を回収するにも必要な巻き戻し期間は一桁では足りなそうである。省みると反省することばかりである。

 なにするかは知らんけど、なんとかしないといけない。きっかけはロクでもないが、最近は家族とよく連絡を取っている。おれの運転で父とキャンプに行くとか?