むだい

某日

 asiaでカウントダウンイベントに出演。年越しをクラブでするのは7-8年ぶりな気がしている(確認すればわかることであるがあえてせず)。

 大阪市内の自転車圏内のみで生活するようになって久しく、年の最終日にして、今年初めて会う人がほとんどなのが不思議な感覚である。音楽イベントで人が集まることを自分はよく”親戚の集まりのよう”と形容するが、定期的に会うリアル親戚がもうほとんど居なくなってしまった今、このコミュニティの自分にとっての擬似親戚っぽい機能は増すばかりである。これはありがたくもあるが、素直に喜んでいいのかは謎である。

 都内でのライブセットは久しぶりで、テンション高めに設定したはずがasiaのtwich配信のアーカイブをを見返すとだいぶ控えめな感じであり、世間とのギャップがじわじわと広がっているのかもしれない。

 

某日

 間も無く無くなってしまう新木場agehaに出演。agehaによく出ていたわけでもなく、客層も見慣れない感じで、さらに出番が朝方であったためいまいち緊張感のないまま過ごす。

 なんせ人の数が多いため、いろいろな人に近況報告をしたりされたりする。と言ってもうわべの挨拶をこなしていくという感じではなく、一人一人なかなかにじっくり話ができて実に助かる。人が多すぎると一周回って個々人とパーソナルな話ができるという発見。「最近どう?」と聞きたい人がいて、聞いてもらえるだけで人生はまあ十分であると感じる。

 テントに入りきらないほどのお客さんの前で自分の出番。何をやっても盛り上がるんじゃないかみたいなオーディエンスのテンション。この状況に対しての自分の寄与がゼロだとは言わないが、とてつもなく巨大な"てこ"の末端を数ミリ程度動かす権利をもらっただけと言った感覚である。音楽は同期摂取のハードルが他のエンタメに対して低いため、てこが効きやすい。貴重な機会なのでありがたく楽しませていただきました。

 「新木場くる用事なくなりましたね」みたいな話をしながら帰宅。確かに当分のあいだ新木場に来ることはないであろう。そんな感じで、今まではよく行っていたが、何かを境にすっかり行かなくなった他の土地のことを考えてみたが、正直生活圏内や一部の都会を除いて、だいたいがそうである。自分にとって特別な意味のある土地、みたいな場所はあって欲しいが、実際のところ用事があるかないかだけみたいな感じである。

 

某日

 ソーコアでDJ。告知が適当すぎたこともありお客さんが片手で数えられるほどしかおらず、数日前のagehaとのコントラストにクラクラする。そもそもお客さんの人数なんてものは人気や実力のバロメータとしてガバガバであり、少なかったり、全然いなかったりのそれ自体はどうでも良いのである。そんなことより、東京以外の土地で自分の音楽を気に入ってくれている人に対しての、共感コミュニティみたいなものを提供できないのがいちばんの問題であるように感じている。

 一人で音楽を聴いて楽しんでいる、ないしはガラガラのフロアでプレイを見ているだけで満足する人ばかりであればそれでいいが、そういうわけでもないであろう。個人主観の絶対評価だけでコンテンツの良し悪しを判断して楽しめる人間は結構特殊である。マジでうまいと思った飯屋がいつもガラガラで、さらに食べログ評価がゴミカスであったり、レビューがさっぱりついていなかったりしたときに、自分の舌を信じ抜けよみたいな態度ではどうもいられない。

 

某日

 大阪のヤングガンbravenの作ってくれたリミックスの動画編集。撮影(とはいっても定点で5カット程度撮っただけ)自体は去年の秋くらいに済ませていたが、「音源仕上げますわ」と言ってから音沙汰がないまま年が明け今に至る。そもそも「動画撮ろうや」と言う話を自分から彼にしてから具体的に動き出すまで数ヶ月放置、曲の原型が来てからまた数ヶ月放置、と先送りドッヂボールを繰り返し続けており、最終音源と映像素材が手元に存在している今このタイミングですらまた先送りの悪魔がおれに囁いてくるわけである。チュートリアル徳井氏の脱税時の名コメントを胸に、覚悟を決め夏休み最終日テンションでbravenとなんとか動画を公開。内容には満足。締切なき制作こそが本懐である。

 一方で、せっかく他人に協力をしてもらったのに、再生数みたいなわかりやすい結果で報いることができないのは最近の悩みでもある。数字の利害関係のみでやりとりするような人と組むことはないが、手伝ってくれた人には単純になんらかの儲けを得て欲しいみたいなすけべ心はある。すけべなだけでそんな力はない。

 

某日

 トマソンスタジオ最終日。機材やらを人にあげたり売ったりしながら片付けを進める。こうして見ているとすべてが遠い昔のように思えるが、すべて最近の話である。恐ろしいことにコアメンバー(という概念があるのかはわからないが)のみならず、関わってくれた周縁の人間も今や大半が関西から飛び立っていき、幸いなことに皆めいめいのフィールドで活躍している。嬉しくもあり寂しくもある。この構図自体が地方での活動の難しさそのものでもあるが、そもそもこのメンバーには関西にいないと出会えなかったわけであり、それは損得でははかれないプライスレス事象である。

 

某日

 コロナ感染者数がまた増加し、なんとも言えない世間のムード。年末年始に呑気に音楽イベントに出演してしまっている身分として、このシチュエーションの負の加担者である事実は明確である。

 そんな中トマドさんから電話がかかってくる。「マルチネイベの開催にあたっての意見を確認したく・・・」みたいな内容で、「一晩考えさせてください」という感じの返事。一晩考えて翌日、自分が回答するより先に開催延期決定の旨を伝えられる。

 イベントが一旦開催されなくなり、自分の意思やスタンスを開示の必要性や、そもそも”コロナ禍に音楽イベントってどうなん?”という問いへの自分の暫定回答をする必要性が一旦保留になったわけであるが、こう言った問いへの最新回答を常に持っていない時点で不誠実であるように思う。情けない。

 

某日

 ロシアがウクライナへの侵攻を開始。棚上げしていた各種の”問い”に対する暫定回答を早く作れと強いられている気持ちになる。例えば明日もし日本の核保有の是非について国民投票が実施されたとしたら、自分は意思を持ってどちらかに投票できるのであろうか?問われるのはいつかわからず、そしてそれはトマドさんからの電話のように突然やってくる。

 プラクティカルな姿勢というか、生活コスパみたいなことを考えると、ウクライナ情勢の正確な情報を収集するよりも明日の花粉飛散量の予報を見ることに注力すべきとなってしまう。どこまでが自分ごとで、どの程度の事柄まで”俺の公式回答”を準備しておくべきなのだろうか?SNSでの流行りの話題に逐一言及するのはなるべく避けているが、どのトピックスに対してもなんの意見も言えない人間にはなりたくない。あと最近はあらゆる情報が、その情報を得た誰かのリアクションと共にやってくる。ぽまいらのリアクションの前に、漏れの考えを準備させて、クレメンス☆

 

某日

 あまりにニュースから得られる情報に対する解像度が低いため山川の世界史Bの教科書を購入する。原始時代から始まって時代に沿って現代社会に至る構成であるが、本題に入る前に気候変動、漂流民、砂糖と三トピックスについてのコラムが掲載されており、それにいたく感動してしまった。世界史を学ぶことによってどのような視座が得られるのか?に」対してヒト、モノ、コトを対象に例を挙げ、「な、世界史おもろいやろ?」と問いかけるべく編纂されているのである。これまでの環境問題に過去人類はどう立ち向かった?海を跨いだ人の交流は何をもたらした?普段食ってる食べ物の背後の壮大なストーリーとは?なるほど学ぶ上での動機づけとして隙がなく、!プログラミングで月収50マン!とか言っている奴らには一生できないエディットである。この世には深い心意気を感じられる作品が(教科書をそう呼ぶのが適切かは知らん)がある。その心意気を感じ取るためには知恵が必要である。そこでまた世界史を学んで得た視座が役に立ち……

 

某日
 朝方まで寝られず、明け方にふらっとコンビニに向かう。コンビニから出てきた若い男女が自転車二人乗りで発進しようとしており、男が自転車を漕ぎ出しながら、後ろの女性に向かって「軽いっすね!」と叫んでいた。敬語だし女性が先輩なのか、そんなに親しくはなさそうやな、朝まで飲み会してたんか、方向が同じで送り届けるだけなのか、意気投合してどちらかの家に向かうのか・・・たった一言で考えられるシチュエーションが次々と頭に浮かんできて、極めて俳句的な情景であるなと感じてしまった。

 

某日

 ジョコビッチやカイリーアービングなど、反ワクチンのスポーツ選手を見ていると、自由の優先順位について改めて考えさせられる。自由を全体最適のための手段としてみるか、公衆の利益を超越した絶対権利と考えるかという話で、(ワクチンの効果は有意であるという仮定の下で)カイリーを空気が読めない迷惑なやつとするのか、当然の権利を行使していると考えるべきかの話である。ジョコビッチはワクチン打たなくていい。ここまでは良いがじゃあテニスプレイヤーとしての活動はどこまで制限されるのがリーズナブルなの?みたいなことを大真面目にロールズの正義論とか引っ張り出して考えてみるのである。とにかく自分はコミュニタリアンっぽさがあるということだけがわかる。

 

某日

 渋谷でasia周年イベント。リハ前にVaVaくんシャケさんバツ西山と飯。「作品が完成した日、自分へのご褒美として贅沢するなら何する?」という話題。牛角ではなく叙々苑にいくことで得られるものはなんなのか?みたいな話をしながら、最終的に”風呂を満タンにして溢れさす”的行為こそが贅沢だみたいな感じに着地。心の中の大槻班長は「へただなあ、カイジくん。へたっぴさ……..!」と言っている。

 

某日

 川辺くんとの共作曲のアートワークをやってもらった坂内拓氏の個展へ。「どういう経緯で僕に辿り着いたんですか?」と質問されるがいまいちうまく答えられず。言いたいことをめちゃくちゃ端折ると「私の曲のことをわかってくれそうな作品を作っているからです」という感じになるが、会っていきなり言うにはキモいというか小っ恥ずかしい話であり、そしていまさら説明するのも野暮であるとも言える。

 音楽で飯を食ってるわけではないのが功を奏してか、何かを頼んだりするときは大体がおれのことをわかってくれそうな人〜という軸だけで人選させていただけるのでいい感じではある。リリースでの収支を無視して作品を買っていると思えば安すぎるくらいで、頼まなければ存在しなかった創作物が自分の依頼で生まれるのはつくづく本当に得である。

 

某日

 秋葉原MOGRAで三十路ナイト。もう三十路かよ……みたいなのは言うまでもなく。今回は友達ばっかりであったが、こう生まれ年が同じ、という、性格とか嗜好とかの属性があまり関係ない共通項のみで人を集めるみたいなのはもっとやっていいような。満足げな原くんと酔っ払ったままタクシーに乗り込むリカックス。おれはドーミーインの大浴場で朝風呂。

 4時間程度の睡眠ののちマルチネイベントのため表参道wall&wallへ。実物を知らぬままだいぶ経ってしまったマルチネニュージェネレーションとの交流。みな気持ちが音を越えている感じ。なんとなく満タンの風呂を溢れさせているイメージが浮かぶ。音を歪ませる、高音のボイスサンプルが掠れていく、聞き慣れないテクスチャの音が鳴る…美しい彫刻を遠くから眺める良さとは違う、小皿の大盛り的なオーバーフロー感。あとまとまった時間をかけるライブセットはその人の個性がよくわかっていい。

 サブスクに合わせ短い曲が増えていて〜シングルが重視されて〜みたいな話はあるが、音楽で遠くへ行くにはある程度の時間的長さが必要な気はしている。あと個人的に音楽の好きなところは鑑賞の専念を強制されないところで、耳以外は空いているので、散歩したり運動したり、関係ないことと並行できる。時間はかけるけど集中はしていない、というのは自分の性に合っている。クラブやDJも然り。そういう意味でやっぱみんなアルバムを出して欲しいな〜とは思う。飯食ってホテル帰って爆睡。

 目覚めると藤本タツキ氏のさよなら絵梨が公開されている。自分はどこまで行っても創作賛美的な感じのものに惹かれてしまうのは認めないといけない。とはいっても創作のパワーを崇めるというよりは、創作物だけでなく創作行為自体も好き、というだけである。映画が好きで、かつ映画を撮るという行為も好きだと、映画を撮る行為も含めた題材の選び方になるが、それはテクニカルな面を面白がってメタ構造にしているわけではなかったりするのではとは思う。

 個人性の強いものが好きで1人で音楽を作っている自分に対して、映画という人手のかかる総合芸術リファレンスで個人制作するのは大変そうやな〜と他人事のような気持ち。自宅に着くや爆睡。有給とった翌日もまた爆睡。

 

某日

 西山くんの引っ越しを理由に定期ハウス界ALTN最終回。関西で定期的にDJをする機会が消滅。これは健康に響くのでどうにかしないといけない。