無題

四月某日

 出張時、適当に入った定食屋に幽遊白書が置いてあり、暇つぶしにこれまた適当に数巻取って読む。幽遊白書を初めて読んだのは小学生のときで、それから大人になってからも何度か読み直しているが、いつ読んでも面白い。手に取ったのは終盤の、魔界統一トーナメントの話のところであった。

  「雷禅の死をきっかけに、穏やかに暮らしていた旧友たちが集まってきて、みんなめちゃくちゃ強い」という設定が自分はとても好きである。魔界統一を企てるヤバそうなやつらと同じくらい強いが、黙ってぼやぼやそこらへんで隠居してる、というやつらには妙に憧れてしまう。そいつらが出てきた理由が、「なんとなく幽助に共感したから」程度のものなのもよい。

 毎月のように東京に行き、音楽イベントに出まくっていた頃から比べると、今の自分の生活は相対的に隠居然としている。ひっそりと腕を磨き、友達に呼ばれてはひょっこり登場する。気質とは根深いもので、気づけばかつて憧れた設定を目指しているように思う。

 

4月某日

 漫画村のアクセス遮断云々のニュース。この手の話題に対してはセンシティブというか、うやむやにしたり、棚に上げたりしてはいけないなという気持ちがあるので、自分なりに都度かなりじっくりと考えるようにしている。

  オーバーラップするは去年アメリカに行ったときの記憶、"free the science"というスローガンの名の下に、論文のオープンアクセス化を目指す運動に結構食らってしまったことを思い出す。購読型の学術出版への問題提起というか、既得権益を全力で叩きに行く際のアメリカ感というか…ほぼエルゼビアへの悪口で笑ってしまった部分もあるが、論文投稿へかかるコストを下げ、それを誰でも読める環境で公開することと、厳正な査読により論文の質を担保することを両立する仕組みを作ることは難しいのである。頭脳で飯を食っている学者達でもゴールすら定まっておらず、ちゃんと声を上げ、気合いを入れて、まだ見ぬサスティナブルなシステムを試行錯誤しながら探して行くのである。いわんや音楽や漫画をや…

 エルゼビアが既得権益にしがみついて自然科学の発展の妨げになっているのはそうかもしれないが、一方でsci-hubは科学の発展に貢献しているからセーフになるとは言えない。ちょうどいい落とし所を探す道は険しい。

 Fleet Foxesのメンバーが「違法ダウンロードがおれを育てた」みたいなことを言っていた記憶もあるし、金がない野良の人間が割った論文で得た知識で、自然科学が前進する可能性だってある。そういうものへの接し方は? 自分はインターネットへ接し始めたタイミングでp2pの洗礼を受けた世代でもある。

 とにかく開き直ったり、うやむやにしたりするのが一番良くない。自分の棚上げ具合は日々反省していて、荒れに荒れたcluster Aのコメント欄を自戒も込めて何回も読み直しながら、次のアルバムではちゃんと自分の態度を示そうと、気合いを入れ直す日々である。

 

4月某日

 吉田凜音ちゃんのアルバム「SEVENTEEN」がリリースされる。凜音ちゃんは音楽的基礎体力が高いのか、ラップをやらせても、歌を歌わせても、高い打点でこなしてしまう。そんな方に曲が提供できる機会をいただいた。こちとら器用とは対極である。

  ラストを4小節と同メロだが半音衝突しまくる不吉なイントロ、ライブで歌が丸出しになったほうがおもろいやろとフィルターを思いっきりしめるセクション、ラップをするならブレイクスやろ!と唐突に大ネタをねじ込むなど、謎の意思を持った曲を投げてみる。するとmix担当だったのはillicit tsuboi氏、それを整えるどころか、オーバーラン気味にオタクの瘴気を増幅するような味付けを施して返してくれたのである。

 この体験、湧いて来るのは心からのリスペクト。プロの技術と精神性。中央に寄せるも、意思を持って外すのも技術があってこそ、ああ、こんな人がこの世界にはいるのかと自分の小ささみたいなものを感じてしまった。

 

4月某日

 神戸のエスニックなカレー屋に入店。店中に中村玉緒の写真が飾ってあり、そのうち一枚、中央のそれはまあまあなサイズであったため、ただならぬ雰囲気を感じてしまう。

  一般のメニューとは別に、目玉商品や限定メニューがわけられて準備されていることはよくあるが、その店は一般メニューとは別に、神戸ウォーカーかなにかの雑誌で特集された記事を、見開きそっくりそのままコピー、ラミネートしてメニューに使っていたのである。

  こんな横着あるのかと笑ってしまったが、冷静に考えると、プロがブツ撮りした立派な写真、美味しさを伝える魅力な文章、料理の名前、料金はちゃんと記されており、なにも問題はないどころか、むしろ最適なようにも思えてくる。

まんまとその商品を注文し、その雑誌の写真そっくりのプレートを食う。マレーシア現地感のある独特な味やな…と顔をあげると、うまそうに食っているは嫁の姿。気に入ったようである。

 横を見ると、羽生結弦選手が金メダルを取ったときの記事がでかでか貼ってある。当のオリンピックでの彼の演技をテレビで見た際、スケートの採点の仕組みなどさっぱり知らないが、結果を見るまでもなく、「彼はとんでもなく素晴らしい演技をしたのだな」ということを感じたことを思い出してしまった。この店の店主も、同じような気持ちになったのだろうか、それとも元々熱心なファンだったのだろうか。

 あとで調べると、神戸でペナン・マレーシアスナックをやっていたママが震災で店を失ってしまい、こちらに移転したとのこと。

 そのバイタリティと、圧倒的な演技をしてみなに感動を与えた羽生選手の記事を店に張り出す精神性が、妙にリンクしたような気持ちになってしまった。

 

5月某日

 大阪で結婚式。日頃の行いの良さが効いたのか、快晴でなにより。

  嫁が着たドレスは、嫁の母が結婚式できたウエディングドレスをリメイクしたもの。神戸、北野のアパートの一室で営まれているドレスの仕立て屋さんでお直しをしていただいたのである。

 数十年の休眠期間を経て日の目を見たドレス、自分が見ても「きれいに保存されている、素敵なドレスだな」くらいの解像度でしか接することができないが、リメイクした店主にはどうやら非常に興味深いものだったようで、生地がどうだ、仕立てが、縫い目がどうだ…と言った話を楽しそうにしていたのが印象的であった。あらゆるドレスに針を通し続けた人間の解像度を通じて、そんなテンションになるのならさぞ良いものなのだろう、とこちらもいい気持ちに。ウエディングドレスといういわばニッチなものを、一人ハンドメイドで作り続けているその人間が、オタク性というか、強いこだわりを持って好きなものに向き合い続けている側の人間であることが、服飾のことなどさっぱりわからない自分にも伝わってくる。自分も好きなものにはそうありたいと改めて強く思う。

  式が終わり帰宅した後に、そのドレスを持ってクリーニング屋へ。パーカーにジーパンの若者がいきなりウエディングドレスを持ってきたことに少々面食らった様子を見せながらも、一目見るやそれがリメイクものであることを察し、一目見るや、「また珍しいものを持ってきましたねえ」とでもいいそうなリアクション。こちらが事情を説明すると、保存状態がどうや、素材がどうやと言った話を嬉々としてしはじめた。服一つ、見る人が見るとその足取りが暴かれてしまう。こいつも"わかる側"の人間なのか…。

  とはいえ、特殊な洗濯物を急に持ち込んだこともあり、「後付けしたパーツ細かい素材の素性がわからないのでどうしたもんか」といった雰囲気に。やはりこの手の洗濯は一筋縄ではいかないのか、と思っていると、我々はドレスにお上品な洗濯タグが付いていることを発見したのである。

  それを着けたのはもちろん北野のドレス屋、リメイク時に追加したレースなどの素材の情報はご丁寧に全てそこに書いてあったのである。それを見たクリーニング屋、あとは任せてくださいといいそうな顔。「これなら大丈夫です、1ヶ月くらいかかりますけど」というので、この店なら大丈夫そうだと安心してクリーニングをお願いして帰路へ。

  ドレス屋が洗濯表記を追加しただけの話であるが、そこには「自分が手を加えた服を末永くきて欲しい」というはっきりとした意思がある。意思のある行為はわかる人には伝わるもので、それを手にしたクリーニング屋も、また「自分が手を加えた服を末永くきて欲しい」という気持ちのもと自分の仕事をするわけである。そんな意思の連鎖に強く感動してしまった。そこにあるのは好きなものへの愛と、技術である。愛と技術で社会貢献、なんて素晴らしい。自分も、愛と技術でなんらかの社会貢献ができればと思う。

  というか、自分は好きなものに対して饒舌になるやつには、勝手に親近感を持ってしまうだけなのかもしれないが。