無題

 ようやく新譜が完成しました。「リリースしたけどウケなかったらどうしよう」みたいなことを心配する気持ちは年々なくなっていて、(あまり良い比喩ではないが)トイレで用を足した後のような気持ちのよう。周りの評価が気にならなくなってきたのは、自信から来るものではなく、自炊の飯の味を人と比べてもしゃーないやろ、みたいな感じで、それはそれで不健康な気もしています。とはいえ、人の感想を聞くのが創作の醍醐味。去年の年末から半年かけて作った曲たち、どれも気に入っているので興味があれば是非聴いてみてください。

 今年はもともと"前半はリリース、後半は海外旅行"という皮算用をしていたが、謎のウイルスが蔓延し、気づけば県外に出るのも憚られるような状況である。とは言っても、アンコントローラブルな外因で、脳内計画みたいなものがひっくり返る、みたいなことには、離婚以降すっかり慣れてしまっているところもあり、極端なところ、”「明日隕石が降ってきて死ぬかもしれん」性”みたいなスタンス(実際はもっとマイルドなわけであるが)が、コロナも相まって妙に強くなってしまった状態で暮らしているのが、ここ最近の感じである。

 

6月某日

 トマソンスタジオで友達のライブの撮影など。トマソンスタジオをはじめてから、身の回りには才能のある人がたくさんいて、ひとえにそれを発揮するタイミングがないだけだな、と思うことが増えた。ふと、トーフさんがTTHWの撮影の際に「おれは天才しか企画には呼びませんからね」みたいなことを言っていたことを思い出す。そのときは軽く"若手への発破"くらいにしか思っていなかったが、最近は「自分の周りは天才まみれやな…」みたいなことばかり考えている。周りに天才がたくさんいるので、連れてきて、何かをしてもらう。本当にそうなのかもしれないし、自分がただ身内に甘いだけな気もする。

 めいめいの才能を使おうが使わなかろうが、それは個々人の自由であるが、楽しく発揮できる場はあるにこしたことはない。

 

6月某日

 久しぶりの出社。どうしても、場違いなところに紛れ込んでいるような気持ちが以前より強くなっているような気がしてしまう。

 サラリーマン家庭に育ち、高等教育を受けてデカい会社で働いている、という属性自体がもはや体制側である、みたいな考え方すらある今日、一方で左側への重力すらあるように思える音楽業界にも身を置く自分から、居心地の悪さみたいなものが消えることはなさそうである。

 まだサラリーマンで消耗してんの的な煽り、はたまたフリーランスがコロナで野垂れ死ぬのも自己責任…といった類の、極端な分断を白目で眺めつつ、一方で、双方に片足突っ込んで、どちらもそれなりの実感を伴って見ている自分が、聡明な判断を下せるかというとそういう訳でもなく、ただやるせなさの二重取りをしているだけなようにも思えてくる。

 油断すると、どちらにもなるべく迷惑をかけないように…みたいな消極的な気持ちになってしまうが、正直それが本心でもある。

 

6月某日

 深夜に寝れずにぐだぐだしていると、誰かがdiscordの音声チャットをしており、そこに紛れ込んで適当に喋っては気が済んだら寝る、みたいなことが増えてきた。

 皆ある種の居心地の悪さを感じているのか、TwitterなどのオープンSNSよりも、discordなどの閉じたSNSにいがちで、さながらサークルの部室のようであり、それは自分の健康の維持に非常に役立っている。

 一方で、自分がインターネット好きである理由の一つとして、"森ではなく木を見にいける"というのがある。なんとなく属性やレッテルの括りでしか認識していなかった人を、個人レベルで見れる上、自身も木として機能する、というのが自分にとっては魅力に感じる。そういう理由でオープンSNSは本質的には好きである。

 その機能が失われてしまったわけではないので、自分はまだオープンSNS自体を嫌いになることはない。しかしながら、抽象化し、俯瞰することがスマートであるという考えがあるのか、ネトウヨかパヨクか、フェミ、はたまた"チー牛"のように、なんとなくの森レイヤーの属性への侮蔑がどうしても勢いを持ってしまうのである。

 「みんな持ってるから買って!」とねだる子供へ親の言うところの「みんなって誰よ!」の精神で、よくわからない総体みたいなものを相手にしてもろくなことはなく、会ったことあろうがなかろうが、自分が興味を持つのは個人である。

 対個人、という意識で健康的にインターネットをする上で、過度に憧れたり、過度に憧れさせる仕組みを持たないように気をつけるようになった。インフルエンサーを自称しセルフ粉飾決算に勤しむ人間がトンチンカンなことを言う姿は、もうこれ以上みたくはない。一方で、偉大なことを成し遂げた人に対しては憧憬の念を持たずにはいられず、時には神々しいなにかを感じてしまう時もあるが、勝手に偶像化して見上げるのは、双方にとってヘルシーではない。

 閉じたコミュニティの面白い考えは、外に出て行って広く共有されたほうがいいと願って止まないが、開いたときのストレスフルさはもはや想像を絶するものになりつつある。そういう意味で、自分は性善説、ないしはそういった理想論みたいなものにこだわりすぎているのかもしれない。

 

7月某日

 配信用の音声データの入稿、追ってCD用のDDPとデザインデータの最終入稿。(意図的にではあるのだが)自分以外の人間はリリースに関わっていないので、確認するのも、ジャッジをするのも自分1人である。

 ものは試しに、客観的な良し悪しの判断や、いわゆるマーケティング的な視点を完全に無くしてしまったわけであるが、それは換言すると、おれのリリースは誰にとっても他人事ということである。突然「や〜めた」と言ってリリースを放棄したとしても、迷惑がかかる人はゼロであるため、定期的にそうしたい衝動に駆られたりもする。

 リリース日を誕生日にしたのも、あらゆるイベントが消滅したいま、もはやそれくらいしかタイミングを図る目盛りが存在しないということが理由の大半で、もう半分は自分で自分の誕生日を祝うくらいがちょうどいいと思い始めたからである。

 ローエンドセオリー主宰の方のインタビューで、しきりに"タイミング"についての言及があったことを思い出す。非常にリスペクトする一方で、自分にとってはかるべき"タイミング"なんてものがそもそも存在するのかは正直甚だ疑問である。

 一生懸命作品を作る。出来たら出す、それを続ける。それ以外は正直よくわからない。

 届いたCDには案の定誤植があり、もうそれはそれは悲しい気持ちに。申し訳ないですがご容赦ください。

 

7月某日

 こんなご時世になにか楽しくできることはないか……と考えた結果、なぜかソロキャンプという結論に到達し、スーパーカブとキャンプ道具を一式購入してしまった。

 家にはバイクを停めるスペースがなく、駅前の駐輪場をあてにするも、「予約がいっぱいで、新規の月極契約は半年後までできない」と言われて途方に暮れてしまった。

 なんとなく近所のクラシック不動産屋に入店し、ことの顛末を話すと、店主のおっさんが「お前みたいな儲けにもならん奴の相手をしてもいいことなんて1つもねーわ」みたいなことを言いながら、知人の不動産屋に順番に電話をし、あてのありそうな人を紹介してくれたのである。いいですね、こういうおっさん…とこうべを垂れながら紹介された不動産屋へ、

 紹介された次のクラシック不動産屋では自分が来るのを待ち構えていたおばあさんが。笑顔で「こんな小額の契約よこしてあいつはどうするつもりなのよ」みたいなことを言っており、ああ、こういう感じね、と変にわかったような気分に。「あんたいつからこの街に住んでんのん?」「2年くらいすね」「じゃあまだまだやね」といったやりとり。なにがまだまだなのかは不明であるが、そりゃ至らないところばかりですよ、と妙に納得させられてしまった。それと同時に、なんとなく持っていた「もうそろそろ引っ越しがしたいな」という願望は少し薄れ、もうすこしこの街に住んでみよう、などといった気持ちにさせられていたなど。

 一瞬なにをしにここへきたか忘れそうになる。手書きの契約書に記入をしながら、このローテクな環境の老人達は、Googleでは辿り着けない情報をたくさん持っているのだな、と単純に尊敬の念が湧いてきたのである。一方で自分はGoogleマップがないとこの店にたどり着くことすらできない。笑止。

 

7月某日

 CDやTシャツの発送に明け暮れる。bandcampでNYPで出しても金を出してくれるし、サブスクで聴けるのにCDを買ってくれる、自分をサポートしてくれる人はそんな人ばかりで頭が上がらない。

 高値を出して入場した海外のライブがクソだったり、中古で100円のCDに人生を変えられたりするわけであるから、音楽なんていうのは言い値で適当に売り買いされるくらいがちょうどいいと思ってしまうが、「お前みたいなやつが市場価格を下げるから周りのミュージシャンが苦労する」的なツッコミに対してのまともな返しを自分は持ち合わせていない。

 自分1人でやってるんやから勘弁してくれ、という気持ちで今回はやったが、やはり1人は寂しいので、次はアートワークでもマスタリングでも他人の手を借りようと思った次第です。なんとなく次の作品は、明るく楽しいアルバムにしたいな、と思っています。